役目を終えたはずの巫女でした―――選ばれなかった時間の続き

「では、体温をはかりますね」

体温計を差し込みながら、桜は年配の女性の顔色を確かめた。

「今日は息が楽よ。昨日よりずっと」

「それは良かったです。呼吸も落ち着いています」

脈は整っているし、熱も下がってきている。回復は順調だ。記録に書き込みながら、桜はほっと息をつく。

「もう少しですね」

「ええ、早く戻らないとね。それに、娘も心配するし」

帰る場所がある人の声だった。心配する職場があって、待っている日常がある。

桜は微笑みながらうなずく。

「焦らなくても大丈夫ですよ。きちんと治してから戻りましょう」

そう言いながら、胸の奥に別の言葉が浮かぶ。

あと1か月半。

凜は目を覚ました。引き渡しが可能になれば、交代になる。当初、自分が見積もった約2年、順調に進んでいる。

日本にいる以外の選択肢はないはずだった。

だって、向こうには母と姉がいて、住み慣れた家がある。

――少しなら、里帰りが可能かもしれない。

この世界を選んでも完全に家族に会えなくなるわけではない。

胸の奥底にずっとひっかかっている言葉が消えてくれない。

いつでも帰れるわけでもない。選べば、基本はこの世界にいることになる。

残るなんて、問題外……それなのに。

「どうしたの?」

女性が覗き込む。

「いえ、大丈夫です」

桜は笑って答える。

エリアナに言われた言葉がよみがえる。

――選ばなかったことの後悔

自分は、このまま何も言わないのだろうか。

期限が来て、交代して、それで終わり。

たとえ、気持ちだけがずっと残り続けても。

それは正しい選択のはずなのに、なぜか胸の奥が落ち着かない。

「お大事になさってください」

桜は次の患者へと意識をうつす。仕事はきちんとできている。むしろ、動いているほうが楽だ。それでも、全く考えないでいられるわけではない。

一通りの処置と確認を終え、記録を見直す。引き継ぎ事項を書き込み、必要な指示を確認する。時計に目をやると、ちょうど勤務終了の時間だった。

「では、時間なので帰りますね」

帰りの挨拶をして、桜は席を立った。

そのとき、診療所の入口で今日当番の護衛騎士とクロトが引き継ぎをしているのが目に入る。

「ここからは私が担当いたします」

騎士が一礼し、持ち場を離れる。

「……はい」

頭の中で考えていた人が目の前に現れ、桜は内心の動揺を押し隠すように、クロトの後ろを歩き出した。

――――――――――

歩き出してから少しして、桜はクロトへと話しかける。

「あの、少し……庭を歩いても、いいですか」

「構いません」

クロトは短く答える。

二人で庭園へ出る。夜の空気の中を並んで歩くが、何を話していいのか分からないまま、言葉は出てこない。

足音だけが続く。

しばらくして、桜は口を開いた。

「この間……あの、リエット様に」

前を向いたまま続ける。

「ここに残っても、年に1回、少しだけなら元の世界に戻れるって聞いて」

「えぇ」

短い返答。

「本当は、悩むことじゃないのに。でも……なんていうか、この世界も前より、なじんでるのかなって……」

言いながら、自分でも何を言いたいのか分からなくなる。言葉が途切れる。

クロトは何も言わない。ただ、次の言葉を待っている。

「……皆さん、私がここを選んだら、どう思うのかなって」

その瞬間、クロトの指先がわずかに強く握られる。視線は逸らさないが、返す言葉が見つからない。

桜はそこまで言って、はっとする。

ここを選ぶ。

自分で口にして、胸がざわつく。

「えと、いえ、あの……忘れてください」

慌てて首を振る。

そのとき、ほんの一瞬だけクロトの表情を見てしまう。

困惑はない。否定もない。

ただ、まっすぐこちらを見ている。

それだけで、余計に動揺する。

「……変なこと言いました。もう、戻りますね」

桜は足を速める。

クロトは一定の距離を保ったまま後ろに続く。護衛として当然の位置のまま、二人の間に言葉はない。足音だけが揃って、静かに廊下に響く。

やがて部屋の前に着き、扉が開く。

中へ入る直前、桜はわずかに足を止めて振り返る。

きちんとクロトの方を見る。

「……また、明日。お願いします」

「えぇ」

短い返答。

桜は部屋の中へ入り、扉が閉まる。

クロトはその場に立ち、握りしめていた手を、ゆっくりとほどいた。

――――――――――

扉が閉まった瞬間、桜はその場に立ち尽くした。

なんてことを聞いたのだろう。

ここを選ぶ、なんて。

自分は異世界の巫女。それだけのはずだ。交代すれば、それで終わる。

巫女でなくなった私なんて、クロトさんにとって、何の意味もないはず。

それなのに、まるで意見を求めるみたいなことを言ってしまった。

「……なに言ってるんだろう、私」

迷惑そうな顔はしていなかった。

それだけで、少しだけ救われた気がした。