水曜日、いつも通りの公休日。
午後、部屋にいても落ち着かず、桜は立ち上がる。
本日の護衛担当はリーゼだ。
扉の前に立つリーゼに声をかける。
「診療所に行っても、大丈夫ですか」
リーゼは腰の通信石に触れる。
「サクラ様、診療所へ移動します。通常動線です」
短く報告を入れ、応答を確認してから頷いた。
「問題ありません」
リーゼが先に扉を開ける。
診療所では、最近、決まった時間にイルゼが喘息薬の試行をしている。
奥に顔を出し、桜は少し視線を落としたまま言う。
「少し、落ち着かなくて。何か、お手伝いがあれば……」
イルゼは手を止めない。
「それでしたら、記録をお願いできますか」
理由は聞かない。
桜は向かいに座り、紙と筆を受け取る。
リーゼは診療所の出入り口付近に立ち、警戒に入った。
作業台には乾燥させた薬草と乳鉢、霧化器が並ぶ。イルゼは葉を砕き、量を量り、水を加えて練る。粉末の細かさを確かめ、再びすり潰す。
「粉砕は、もう少し細かい方がよさそうですね」
桜は頷き、筆を動かす。
薬草の種類、粉砕の程度、霧化後の刺激の有無など、イルゼの言葉を記載していく。
この世界の文字を、ある程度まで書けるようになっていた。
筆先が止まる。
「どうしましたか?」
顔を上げる。
「あ、すみません。これじゃ、手伝いになってないですね」
慌てて筆を動かす。
今朝のことが、頭から離れなかった。
――――――――――
今朝、結界修正を終えて部屋に戻ったあと、リエットが訪ねてきた。
「巫女交代のことについて、サクラ様にお聞きいただきたいことがございます」
部屋に通し、桜が椅子をすすめる。
リエットは腰を下ろし、姿勢を正したまま一呼吸おいた。
「まず、これまでの前提を確認させてください」
桜はわずかに視線を上げる。
「サクラ様がこの世界に残る方法は、一つしかございませんでした」
淡々とした声音だった。
「巫女を交代する前に、ご自身の意思で残留をお選びになること。約1か月、この世界にとどまることで魂は完全に定着いたします」
桜は小さくうなずく。
「その場合、元の世界へは二度と帰ることはできません。次の異世界の巫女が召喚されるまでは、巫女を務めていただきます。そして、新たな巫女が定まった時点で、サクラ様は巫女ではなくなります」
改めての確認だった。
「一方で、巫女交代を受け入れた場合――サクラ様とこの世界との接続は失われます。その後、リン様が新たな巫女としてこちらへ召喚されることとなります」
それが、これまでの決まり。
桜は何も言わない。
日本へ帰れば、もう戻れない。
この世界に残れば、日本へ帰れない。
そのどちらかだと思っていた。
リエットはそこで、わずかに声を落とした。
「ですが――それとは別の可能性が、理論上、確定いたしました」
桜の指先が、膝の上でわずかに動く。
「巫女交代後、約1か月の魂の余韻期間がございます。その間であれば、サクラ様を再びこちらへお呼びすることが可能でございます」
桜は瞬きをする。
「……呼び戻す?」
「はい。巫女ではない立場で、です」
部屋の空気が、かすかに張りつめる。
「その場合、年に1回のみではございますが、固定された約1週間、サクラ様の世界へ帰還することが可能となります」
「ただし、帰還できる時期は固定されます。翌年も同じ時期の同じ1週間のみとなります。自由な往還ではございません」
「でも、里帰りが可能ということですか」
「えぇ」
桜は視線を落とす。
一択だった未来に、もう一つの線が引かれる。
1週間の里帰りが可能、それは今の桜の心を揺らすのには十分な言葉だった。
リエットは続けた。
「そして、この往還を安定させるには、リン様のお力が不可欠です。リン様が完全に目覚め、その力が定着してこそ成立いたします」
淡々とした説明。
「もっとも、その点につきましては、あまり心配しておりません」
桜がわずかに顔を上げる。
「リン様は、3年間、リン様なりに結界と向き合ってこられました。サクラ様と交代する時まで、手を離すことはありませんでした」
それは、そばで見続けてきた者の言葉だった。
「再召喚の時点で、目覚めておられるはずです」
しばらくの沈黙のあと、桜は小さく口を開いた。
「……なぜ、私に?」
リエットはまっすぐに桜を見る。
「貴方は、巫女でなくとも、この世界で十分に根を張っていける方だと、私は思いました」
穏やかな断言。
「そして、迷っておられるようにも見えました」
「余計でしたでしょうか」
リエットの声はやわらかい。
「サクラ様を悩ませてしまうことは承知しております。ですが、理論が確定した以上、貴方には知る権利がございます。そう判断いたしました」
それ以上、リエットは何も言わなかった。
桜を見つめるその表情は、やわらかい。
――――――――――
「これ、どう思います?」
イルゼの声で、桜は顔を上げる。
霧化器に取り付けられた試薬から、かすかに薬草の匂いが立つ。
「前回より、刺激は弱いと思うのですが」
「……はい。少し、穏やかです」
答えながら、桜は筆を持ち直す。
だが、また手が止まった。
イルゼが静かに問いかける。
「今日は、本当にどうしましたか」
桜は視線を落とす。
「あの……もし、ですけど」
言いながら、自分でも何を確かめたいのか分からなかった。
「私が、ここに長くいられたら……」
言葉が途切れる。
「……どう、思いますか」
イルゼは瞬きをする。
「どう、とは?」
問い返す声は変わらない。
桜は首を振る。
「あ、やっぱりいいです。忘れてください」
少しだけ早口になる。
筆を持ち直し、視線を紙に落とす。
作業台の上では、乳鉢の音が続いている。
イルゼはそれ以上問わない。
「では、こちらも記録をお願いします。粉砕後、吸入5分。刺激感、軽度」
桜は頷き、書き留める。
リーゼが、出入り口の位置からこちらを見た。
視線が一瞬だけやわらいだ。
午後、部屋にいても落ち着かず、桜は立ち上がる。
本日の護衛担当はリーゼだ。
扉の前に立つリーゼに声をかける。
「診療所に行っても、大丈夫ですか」
リーゼは腰の通信石に触れる。
「サクラ様、診療所へ移動します。通常動線です」
短く報告を入れ、応答を確認してから頷いた。
「問題ありません」
リーゼが先に扉を開ける。
診療所では、最近、決まった時間にイルゼが喘息薬の試行をしている。
奥に顔を出し、桜は少し視線を落としたまま言う。
「少し、落ち着かなくて。何か、お手伝いがあれば……」
イルゼは手を止めない。
「それでしたら、記録をお願いできますか」
理由は聞かない。
桜は向かいに座り、紙と筆を受け取る。
リーゼは診療所の出入り口付近に立ち、警戒に入った。
作業台には乾燥させた薬草と乳鉢、霧化器が並ぶ。イルゼは葉を砕き、量を量り、水を加えて練る。粉末の細かさを確かめ、再びすり潰す。
「粉砕は、もう少し細かい方がよさそうですね」
桜は頷き、筆を動かす。
薬草の種類、粉砕の程度、霧化後の刺激の有無など、イルゼの言葉を記載していく。
この世界の文字を、ある程度まで書けるようになっていた。
筆先が止まる。
「どうしましたか?」
顔を上げる。
「あ、すみません。これじゃ、手伝いになってないですね」
慌てて筆を動かす。
今朝のことが、頭から離れなかった。
――――――――――
今朝、結界修正を終えて部屋に戻ったあと、リエットが訪ねてきた。
「巫女交代のことについて、サクラ様にお聞きいただきたいことがございます」
部屋に通し、桜が椅子をすすめる。
リエットは腰を下ろし、姿勢を正したまま一呼吸おいた。
「まず、これまでの前提を確認させてください」
桜はわずかに視線を上げる。
「サクラ様がこの世界に残る方法は、一つしかございませんでした」
淡々とした声音だった。
「巫女を交代する前に、ご自身の意思で残留をお選びになること。約1か月、この世界にとどまることで魂は完全に定着いたします」
桜は小さくうなずく。
「その場合、元の世界へは二度と帰ることはできません。次の異世界の巫女が召喚されるまでは、巫女を務めていただきます。そして、新たな巫女が定まった時点で、サクラ様は巫女ではなくなります」
改めての確認だった。
「一方で、巫女交代を受け入れた場合――サクラ様とこの世界との接続は失われます。その後、リン様が新たな巫女としてこちらへ召喚されることとなります」
それが、これまでの決まり。
桜は何も言わない。
日本へ帰れば、もう戻れない。
この世界に残れば、日本へ帰れない。
そのどちらかだと思っていた。
リエットはそこで、わずかに声を落とした。
「ですが――それとは別の可能性が、理論上、確定いたしました」
桜の指先が、膝の上でわずかに動く。
「巫女交代後、約1か月の魂の余韻期間がございます。その間であれば、サクラ様を再びこちらへお呼びすることが可能でございます」
桜は瞬きをする。
「……呼び戻す?」
「はい。巫女ではない立場で、です」
部屋の空気が、かすかに張りつめる。
「その場合、年に1回のみではございますが、固定された約1週間、サクラ様の世界へ帰還することが可能となります」
「ただし、帰還できる時期は固定されます。翌年も同じ時期の同じ1週間のみとなります。自由な往還ではございません」
「でも、里帰りが可能ということですか」
「えぇ」
桜は視線を落とす。
一択だった未来に、もう一つの線が引かれる。
1週間の里帰りが可能、それは今の桜の心を揺らすのには十分な言葉だった。
リエットは続けた。
「そして、この往還を安定させるには、リン様のお力が不可欠です。リン様が完全に目覚め、その力が定着してこそ成立いたします」
淡々とした説明。
「もっとも、その点につきましては、あまり心配しておりません」
桜がわずかに顔を上げる。
「リン様は、3年間、リン様なりに結界と向き合ってこられました。サクラ様と交代する時まで、手を離すことはありませんでした」
それは、そばで見続けてきた者の言葉だった。
「再召喚の時点で、目覚めておられるはずです」
しばらくの沈黙のあと、桜は小さく口を開いた。
「……なぜ、私に?」
リエットはまっすぐに桜を見る。
「貴方は、巫女でなくとも、この世界で十分に根を張っていける方だと、私は思いました」
穏やかな断言。
「そして、迷っておられるようにも見えました」
「余計でしたでしょうか」
リエットの声はやわらかい。
「サクラ様を悩ませてしまうことは承知しております。ですが、理論が確定した以上、貴方には知る権利がございます。そう判断いたしました」
それ以上、リエットは何も言わなかった。
桜を見つめるその表情は、やわらかい。
――――――――――
「これ、どう思います?」
イルゼの声で、桜は顔を上げる。
霧化器に取り付けられた試薬から、かすかに薬草の匂いが立つ。
「前回より、刺激は弱いと思うのですが」
「……はい。少し、穏やかです」
答えながら、桜は筆を持ち直す。
だが、また手が止まった。
イルゼが静かに問いかける。
「今日は、本当にどうしましたか」
桜は視線を落とす。
「あの……もし、ですけど」
言いながら、自分でも何を確かめたいのか分からなかった。
「私が、ここに長くいられたら……」
言葉が途切れる。
「……どう、思いますか」
イルゼは瞬きをする。
「どう、とは?」
問い返す声は変わらない。
桜は首を振る。
「あ、やっぱりいいです。忘れてください」
少しだけ早口になる。
筆を持ち直し、視線を紙に落とす。
作業台の上では、乳鉢の音が続いている。
イルゼはそれ以上問わない。
「では、こちらも記録をお願いします。粉砕後、吸入5分。刺激感、軽度」
桜は頷き、書き留める。
リーゼが、出入り口の位置からこちらを見た。
視線が一瞬だけやわらいだ。

