日曜の午前中、桜は凜の家の前で一度だけ深呼吸をした。
昨夜のうちに「明日、少し話せる?できれば、叔母さんも一緒に」と連絡はしてある。凜からはすぐに「いいよ」と短い返事が返ってきた。その文面がいつも通りだったことに、少しだけ安堵しながらも、胸の奥の重さは消えなかった。
インターホンを押すと、玄関を開けたのは凜だった。
「いらっしゃい、桜ちゃん。ちょうどよかった、聞いてよ」
靴を脱ぐ間もなく、凜は勢いよく話し始める。学校のこと、クラス替えのこと、友達と行ったカフェのこと、次のテストのこと。話題は途切れず、明るく、にぎやかで、どこか早口だった。
桜は相槌を打ちながら、その様子を見ている。
――気づいている。
凜は、何かを察している。だから先に話し続ける。桜に切り出させないように。
リビングでは華子が紅茶を用意してくれていた。椅子に腰かけてもなお、凜は楽しそうに話し続ける。
「それでね、来月またみんなで遊びに行く予定なんだ。日程合わせるの大変でさ、部活もあるし――」
「凜ちゃん」
桜はゆっくりと声をかけた。
凜の言葉が、そこで止まる。視線が一瞬だけ揺れた。
桜は膝の上で手を重ねる。逃げないと決めて、今日はそのために来た。
「前にも少し話したけどね。そろそろ、巫女の交代の時期が近づいてると思うの」
凜のまつげが、ぴくりと動く。
「結界も、引き継げるところまで整ってきた。たぶん、あと3か月もないんじゃないかな」
言ってしまった、という空気が落ちる。
凜は目を伏せ、少しだけ視線をさまよわせたあと、かすれた声で言った。
「……分かってる」
強がるでもなく、反発するでもなく、ただ小さく。
「分かってるけどさ」
顔を上げる。その目は、すでに少し潤んでいる。
「あの世界、嫌いじゃないよ。でも、週1で行かなきゃいけないの、正直きついし。力強いから、そのうちお母さんみたいに月1でよくなるって言われてたのに、いつまでたってもそうならないし」
言葉が、止まらなくなる。
「助けなきゃいけないのは分かるよ。でも、私には全然関係ない世界だし。桜ちゃんもお母さんも、当たり前みたいにやってたけど、あれ、普通じゃないよ」
凜の指先が、ぎゅっと握られる。
「すごいと思うよ。でも、私、そんなふうに思えなかった」
桜はその様子を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「私は高校生で呼ばれて、それでも最初はすごい重圧だった。凜ちゃんはまだ中学1年生だったでしょ。あの年齢で背負うには、あまりに大きすぎるものだったと思うし」
凜が顔を上げる。
桜は少し苦笑しながら続けた。
「それに、私の場合は、こっちでの予定もそこまで詰まっていなかったし、友達が多いタイプでもなかったから。正直に言うと、異世界に行けるんだ、って、少し不思議で、少し得したみたいに思ってたところもあるから」
凜の目が揺れる。
「凜ちゃんは、友達も多いし、約束もあるし。週1で抜けるのは大変だよね」
華子が、そこで初めて口を挟んだ。
「私はどうだったかしらね」
穏やかな声だった。
「決められたことだから、やるしかない、という感じだったわ。でもね、それが正しい感情かどうかなんて、誰にも決められないのよ」
凜は唇をかみしめる。視線を落としたまま、しばらく何も言わない。それから、ぽつりと言った。
「ねえ、私、ちゃんとできてた?」
桜は一瞬だけ言葉を失う。
「だって、いつまでたっても週1通わなきゃいけないってことは、上手くできてなかったってことでしょ。結局、桜ちゃんにまた交代したし。あれ、普通ないことだって、お母さんも言ってたじゃん」
涙が、こぼれ落ちる。
「私がちゃんとできてたら、交代なんてしなくてよかったんじゃないの?」
桜は逃げなかった。
「上手く力を扱えていなかったのは、そうだと思う。でも、それは凜ちゃんが悪いからじゃない」
凜の肩が震える。
「たぶん、凜ちゃんの力が強すぎたんじゃないかな。中学1年で、あの出力を安定させるのは簡単じゃない。私も最初から上手くいってたわけじゃないよ。凜ちゃんは、その時点でまだ12歳になったばかりだったし」
華子も静かに頷く。
「12歳で呼ばれたのが早すぎたのよ。あんたの力が強かったから、結界が引っ張った可能性はあるわね」
凜は涙を拭う。
「それでも、交代する必要あるの?」
「あるわ」
華子の声は、ぶれなかった。
「交代は強制的に起きる。これは感情では止められないの」
凜が目を見開く。
桜が続ける。
「私の力には限界があるの。あと2、3か月くらいで、これ以上結界を良くできなくなる気がしてる。だから、その頃が巫女交代の目安なんじゃないかなって」
一度、息を整える。
「今の私が代わりだとは思ってない。でも、ずっと続けられるわけでもないから」
凜はしばらく何も言わなかった。やがて、ゆっくりと息を吸い込む。
「ごめんね、桜ちゃん」
涙で赤くなった目のまま、凜は言う。
「桜ちゃんも大変なのに」
桜は首を振った。
「大丈夫」
凜は一呼吸おいてから、はっきりと言った。
「もう少しだけ、待ってくれる?逃げないで考えるから。それで、桜ちゃんと、あの世界のこと、ちゃんと話す」
華子が凜の肩を引き寄せる。
その様子を見つめながら、桜は小さく息を吐いた。
時間は、もう多くない。
けれど、凜は目を逸らさなかった。
昨夜のうちに「明日、少し話せる?できれば、叔母さんも一緒に」と連絡はしてある。凜からはすぐに「いいよ」と短い返事が返ってきた。その文面がいつも通りだったことに、少しだけ安堵しながらも、胸の奥の重さは消えなかった。
インターホンを押すと、玄関を開けたのは凜だった。
「いらっしゃい、桜ちゃん。ちょうどよかった、聞いてよ」
靴を脱ぐ間もなく、凜は勢いよく話し始める。学校のこと、クラス替えのこと、友達と行ったカフェのこと、次のテストのこと。話題は途切れず、明るく、にぎやかで、どこか早口だった。
桜は相槌を打ちながら、その様子を見ている。
――気づいている。
凜は、何かを察している。だから先に話し続ける。桜に切り出させないように。
リビングでは華子が紅茶を用意してくれていた。椅子に腰かけてもなお、凜は楽しそうに話し続ける。
「それでね、来月またみんなで遊びに行く予定なんだ。日程合わせるの大変でさ、部活もあるし――」
「凜ちゃん」
桜はゆっくりと声をかけた。
凜の言葉が、そこで止まる。視線が一瞬だけ揺れた。
桜は膝の上で手を重ねる。逃げないと決めて、今日はそのために来た。
「前にも少し話したけどね。そろそろ、巫女の交代の時期が近づいてると思うの」
凜のまつげが、ぴくりと動く。
「結界も、引き継げるところまで整ってきた。たぶん、あと3か月もないんじゃないかな」
言ってしまった、という空気が落ちる。
凜は目を伏せ、少しだけ視線をさまよわせたあと、かすれた声で言った。
「……分かってる」
強がるでもなく、反発するでもなく、ただ小さく。
「分かってるけどさ」
顔を上げる。その目は、すでに少し潤んでいる。
「あの世界、嫌いじゃないよ。でも、週1で行かなきゃいけないの、正直きついし。力強いから、そのうちお母さんみたいに月1でよくなるって言われてたのに、いつまでたってもそうならないし」
言葉が、止まらなくなる。
「助けなきゃいけないのは分かるよ。でも、私には全然関係ない世界だし。桜ちゃんもお母さんも、当たり前みたいにやってたけど、あれ、普通じゃないよ」
凜の指先が、ぎゅっと握られる。
「すごいと思うよ。でも、私、そんなふうに思えなかった」
桜はその様子を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「私は高校生で呼ばれて、それでも最初はすごい重圧だった。凜ちゃんはまだ中学1年生だったでしょ。あの年齢で背負うには、あまりに大きすぎるものだったと思うし」
凜が顔を上げる。
桜は少し苦笑しながら続けた。
「それに、私の場合は、こっちでの予定もそこまで詰まっていなかったし、友達が多いタイプでもなかったから。正直に言うと、異世界に行けるんだ、って、少し不思議で、少し得したみたいに思ってたところもあるから」
凜の目が揺れる。
「凜ちゃんは、友達も多いし、約束もあるし。週1で抜けるのは大変だよね」
華子が、そこで初めて口を挟んだ。
「私はどうだったかしらね」
穏やかな声だった。
「決められたことだから、やるしかない、という感じだったわ。でもね、それが正しい感情かどうかなんて、誰にも決められないのよ」
凜は唇をかみしめる。視線を落としたまま、しばらく何も言わない。それから、ぽつりと言った。
「ねえ、私、ちゃんとできてた?」
桜は一瞬だけ言葉を失う。
「だって、いつまでたっても週1通わなきゃいけないってことは、上手くできてなかったってことでしょ。結局、桜ちゃんにまた交代したし。あれ、普通ないことだって、お母さんも言ってたじゃん」
涙が、こぼれ落ちる。
「私がちゃんとできてたら、交代なんてしなくてよかったんじゃないの?」
桜は逃げなかった。
「上手く力を扱えていなかったのは、そうだと思う。でも、それは凜ちゃんが悪いからじゃない」
凜の肩が震える。
「たぶん、凜ちゃんの力が強すぎたんじゃないかな。中学1年で、あの出力を安定させるのは簡単じゃない。私も最初から上手くいってたわけじゃないよ。凜ちゃんは、その時点でまだ12歳になったばかりだったし」
華子も静かに頷く。
「12歳で呼ばれたのが早すぎたのよ。あんたの力が強かったから、結界が引っ張った可能性はあるわね」
凜は涙を拭う。
「それでも、交代する必要あるの?」
「あるわ」
華子の声は、ぶれなかった。
「交代は強制的に起きる。これは感情では止められないの」
凜が目を見開く。
桜が続ける。
「私の力には限界があるの。あと2、3か月くらいで、これ以上結界を良くできなくなる気がしてる。だから、その頃が巫女交代の目安なんじゃないかなって」
一度、息を整える。
「今の私が代わりだとは思ってない。でも、ずっと続けられるわけでもないから」
凜はしばらく何も言わなかった。やがて、ゆっくりと息を吸い込む。
「ごめんね、桜ちゃん」
涙で赤くなった目のまま、凜は言う。
「桜ちゃんも大変なのに」
桜は首を振った。
「大丈夫」
凜は一呼吸おいてから、はっきりと言った。
「もう少しだけ、待ってくれる?逃げないで考えるから。それで、桜ちゃんと、あの世界のこと、ちゃんと話す」
華子が凜の肩を引き寄せる。
その様子を見つめながら、桜は小さく息を吐いた。
時間は、もう多くない。
けれど、凜は目を逸らさなかった。

