優しさの行き先

 ホテルの正面玄関を出た瞬間、空気が変わった。
 ホールの甘い香りも、笑い声も、シャンデリアの光も——背後で扉が閉まると同時に、まるで夢だったみたいに薄くなる。

 現実の夜は冷たい。
 冷たいのに、肺の奥まで空気が入る。
 私はそれだけで、少しだけ生き返る。

 透は先に一歩、外へ出た。
 私の隣に並ばない。
 前に出て、風除けになる位置に立つ。
 ——“手を取らない盾”だ。

「寒い?」
 透が振り返らずに聞く。

「……平気」
 私は反射で言いそうになって、言い直す。
「寒い、かも」

 透が小さく頷く。
 その頷きが、私の言い直しを褒めてくれるみたいで、胸がじんとした。

「コート、ちゃんと着ろ」
「……子どもみたい」
「今日は子どもでいい」
 透の声は淡々としている。
 でも、その淡々が優しい。

 私はコートの襟を整えた。
 指先がまだ少し震えている。
 さっきの乾杯の言葉が耳に残っているから。

——因果応報に。
——奪った女の末路に。

 私は息を吸って、吐いた。
 透が言ってくれた“呼吸”を思い出す。

 車寄せには、黒い車が停まっていた。
 透の車ではない。
 白石家の車でもない。
 ——会場専属の送迎車。

 ドアマンが近づく前に、透が軽く手を上げて止めた。

「彼女は俺が送る」
 声は大きくない。
 でも、通る声だ。
 ドアマンは一瞬迷い、私の顔を見て、理解したように頭を下げた。

「かしこまりました」

 私は透の背中を見た。
 私の代わりに“交渉”をしてくれる背中。
 それだけで、胸の奥が少しだけ楽になる。

 透は、私のドアを開けない。
 手を差し出さない。
 その距離は、彼なりの礼儀で、配慮で、線引きだ。

「乗れる?」
 透が聞く。
 私は頷いて、自分でドアを開け、車に乗り込んだ。
 その“自分で”が、いまの私にはありがたい。
 守られすぎると、私はまた“奥様の仮面”に戻ってしまうから。

 透が運転席に乗り、エンジンがかかる。
 車が滑るように走り出すと、ホテルの光が遠ざかっていく。

 私は窓の外を見た。
 街のネオンが滲んで、夜が柔らかく見える。
 柔らかいのに、痛い。

「……恒一」
 私はふいに名前を口にしてしまった。
 自分で驚く。
 さっき“絵里紗さんとお幸せに”と言ったばかりなのに。

 透はすぐに返さない。
 ハンドルを微調整してから、短く言った。

「聞く?」
 聞く?
 恒一のことを、透に?
 私はその言葉に喉が詰まった。

「……聞きたいのに、聞きたくない」
 私の声は、情けないほど小さい。

 透が、淡々と言う。

「それが普通」
 普通。
 またその言葉。
 私は“普通”がわからなくなっていた。
 妻として、奥様として、悪役として——普通を捨ててきたから。

「……私が悪役なんだって」
 私は呟いた。
「今日、乾杯されたの。因果応報にって」

 透のブレーキランプが一瞬だけ赤く光る。
 信号で止まっただけなのに、胸がきゅっと縮む。

「……誰が言った」
 透の声が低くなる。
 怒りの熱はない。
 でも、冷えた怒りは怖い。

「わからない。たくさんの声が混ざってた」
 私は正直に言った。
 ホールでは、誰が言ったか特定できない。
 特定できないから、余計に逃げられない。

 透は「そうか」とだけ言った。
 そして、信号が青になると車を走らせる。

「叶乃」
 透が呼ぶ。
 私は返事をする前に、息を吸った。
 呼吸を、忘れないように。

「今日、あそこに戻った時点で、叶乃は強い」
「強くない」
 私はすぐ否定した。
「強いふりをしてただけ。怖かった。吐きそうだった」

 透は、静かに言う。

「怖いのに立ってた。それが強さだ」
 慰めじゃない。
 評価でもない。
 ただ、事実として言う。
 その事実が、私の背骨を支える。

 車内に少しだけ沈黙が落ちる。
 私はその沈黙が怖くなかった。
 恒一の沈黙とは違う。
 透の沈黙は、私の隣にいる。

 私はぽつりと言った。

「……透、手、繋がないの?」
 自分でも驚く質問だった。
 透は一瞬だけ目を細める。笑ったのか、困ったのか分からない表情。

「繋がない」
 即答。

「どうして」
「叶乃が明日、もっと苦しくなる」
 透の声は淡々としたまま、真っ直ぐだった。

 私は唇を噛んだ。
 確かに、手を繋いだら噂になる。
 噂が“救い”から“新しい物語”に変わる。
 私はまた、誰かの物語の材料になる。

「……でも、今夜は」
 私は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
 今夜だけは、誰かに触れてほしい。
 そう言ってしまったら、私は崩れる。

 透が、私の飲み込んだ言葉に気づいたみたいに、少しだけ声を落とす。

「叶乃」
「……なに」
「俺は、触らなくてもここにいる」
 その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。

 触れない。
 でも、いなくならない。
 恒一がくれなかったものを、透は別の形でくれる。

 白石家の門が見えてきた。
 門灯が夜に滲んでいる。
 私は反射で背筋を正した。
 家に近づくと、“奥様”が戻ってくる。

 透は速度を落とし、門の前で車を停めた。
 私の方を見ずに言う。

「ここで降りろ」
「……うん」
 私はシートベルトを外す。
 手がまだ震える。
 でも、さっきより少しだけ軽い。

 ドアを開ける前に、私は透に言った。

「透」
「ん」
「……ありがとう」
 声が、かすれた。

 透は短く頷くだけ。
 そして、いつものように余計な優しさを足さない。

「明日、連絡する」
「……うん」
「無理なら、無理って言え」
 それだけ言って、透は視線を前に戻した。

 私は車を降りた。
 夜の冷気が頬に触れる。
 門の向こうが、怖い。

 ——その時。

 玄関前に、ひとつの影があった。
 街灯の下、濡れた地面に長く伸びる影。
 傘も差さずに立つ男。

 白石恒一。

 胸がきゅっと縮む。
 逃げたい。
 でも逃げたら、私は“消える”。

 透が運転席から降りてきた。
 ——来ないはずなのに。
 でも彼は私の隣に来ない。
 私の前に立つ。

 ちょうど、恒一と私の間に。

「……白石さん」
 透が低く言った。
 礼儀正しい敬語。
 でも一歩も引かない声。

 恒一の目が透を捉える。
 空気が硬くなる。

「……朝比奈」
 恒一が短く言う。

 透は軽く頭を下げる。
 形式だけの挨拶。
 その後、淡々と告げた。

「叶乃を送った。それだけです」
 “それだけ”という言葉が、恒一の口癖の逆みたいで、私は苦しくなった。

 恒一が私を見る。
 私の目を見ようとしない。
 見るのは、私の“立場”だけ。

「叶乃。話がある」
 恒一が言う。
 いつも通り、短い。

 私は、喉が痛くて、返事ができなかった。
 すると透が、私にだけ聞こえる声で言った。

「叶乃。選べ」
 たったそれだけ。
 でも、私に主導権を返す言葉。

 私は息を吸った。
 深く。
 透の車内で覚えた呼吸。

「……今夜は、無理」
 私はやっと言った。
 声は震えた。
 でも——嘘じゃない声だった。

 恒一の眉がわずかに動く。

「……無理?」
 透が一歩だけ前へ出た。
 盾だ。
 手を取らない盾。

「白石さん」
 透の声は低い。
「彼女が“無理”と言った。今日はそれで終わりです」

 恒一の目が細くなる。
 怒りではない。
 理解できないという顔。

「……叶乃」
 恒一がもう一度呼ぶ。

 私は、目を上げた。
 悪役の仮面をつけたまま。
 でも仮面の奥で、私は叶乃として言った。

「明日。……明日なら」
 その一言で、自分の心が少しだけ守られた。

 恒一は何も言わなかった。
 沈黙。
 いつもの沈黙。

 でも今日は、透がいる。

 透は恒一に向けて最後に言った。

「今夜は、帰ります」
 透は私を見ない。
 私の背中を押さない。
 ただ、門の外へ戻る動きを見せる。
 “逃げ道”を作る。

 私はその逃げ道に、乗ることを選んだ。
 門の外へ出る。
 透の車へ戻る。
 恒一を残して。

 車のドアが閉まった瞬間、私は息を吐いた。
 肺の奥に溜めていたものが、少しだけ抜ける。

 透がエンジンをかけ、車が走り出す。

「……ごめん」
 私は小さく言った。
 透に、じゃない。
 私の人生に。

 透が短く言う。

「謝るな」
 いつもの言葉。
 いつもの盾。

 私は窓の外に流れる夜を見ながら、やっと思った。

 ——私は今夜、ひとりで立たなかった。
 手は取られなかった。
 でも、守られた。

 そしてそれは、
 私が“悪役”でいることを、ほんの少しだけやめるための一歩だった。