ホールへ戻った瞬間、光が私を刺した。
シャンデリアの煌めき。グラスの反射。ドレスの宝石。
明るいのに、冷たい。
弦楽の音が優雅に流れている。
優雅さは、この世界の“蓋”だ。
蓋の下で、どれだけ心が削れても——誰も見ないふりをする。
私は泣いていない。
泣いた痕なんてない。
そういう顔で、壁際へ戻った。
頬に落ちた涙は拭わなかった。
拭うと、崩れる。
崩れたら、負ける。
悪役は、最後まで立っていなければいけない。
グラスを手に取る。
シャンパンの泡が、私の息より元気に弾けていた。
「……叶乃様?」
小さな声が私の名前を呼ぶ。
振り向くと、若い令嬢——桐生家の**美紅(みく)**が、遠慮がちに立っていた。
彼女は噂を“楽しむ側”ではない。
ただ、空気に流される側の人だ。
「こんばんは、美紅さん」
私は笑った。
——笑える。まだ。
「……白石様は……」
美紅が言いかけて、口を閉じた。
聞いてはいけないと分かっている顔。
私は軽く首を傾げる。
「少し立て込んでいるみたい」
嘘をつくのは簡単だ。
嘘の方が、礼儀正しい。
「そう……ですよね」
美紅は困ったように微笑み、視線を泳がせた。
そして、逃げるように去っていく。
逃げる。
それができる人が、羨ましい。
私は壁際の影に身を寄せる。
さっき回廊で折れたものを、光の中で隠すために。
——その時。
乾杯の合図が鳴った。
ステージに立つのは、今夜の主催側。
司会の声が、マイク越しに柔らかく響く。
「皆さま、本日は白石グループ主催の慈善ガラにお越しいただき——」
拍手。
拍手は、ほとんど反射だ。
ここでは感動より、“参加している”という証明のために手を叩く。
そして、主賓の挨拶が続く。
真面目な言葉。社会貢献。未来。希望。
言葉が綺麗すぎて、私の現実と噛み合わない。
「それでは、乾杯を——」
人々が一斉にグラスを持ち上げる。
グラスが光を反射し、ホールが一瞬だけ星空みたいに見えた。
私は遅れてグラスを上げる。
遅れても、誰も気にしない。
気にされるのは、別のことだ。
——ざわり、と。
私の背後で、笑い声が小さく弾けた。
「……ねえ」
「見た?」
「回廊で……」
「外套、掛けてたわよね」
言葉は小さいのに、耳に入る。
耳の奥へ、正確に刺さる。
私は動かない。
動いたら、聞いていることがバレる。
聞いているとバレたら、もっと楽しそうに言う。
噂好きは、標的が反応するのが好きだ。
「やっぱり因果応報ってあるのね」
誰かが言った。
その瞬間、血が引いた。
グラスの縁が、指先に冷たい。
「……可哀想、でも……」
「でも奥様、最初から“奪った”って言われてたじゃない」
「初恋は戻るのよ。ほら、香りみたいに」
「ねえ、乾杯。……因果応報に」
——乾杯。
因果応報に。
私は、目の前が白くなるのを感じた。
音が遠くなる。
弦楽の旋律が、ただのノイズになる。
でも私は、笑っていた。
笑って、乾杯のグラスを軽く口へ運んだ。
泡が舌に弾ける。
甘いのに、苦い。
そのとき、司会の声が続けた。
「本日のご寄付は、未来を担う子どもたちの——」
未来。
子どもたち。
そんな言葉が、今の私にとっては残酷だった。
私の未来は、いま回廊で折れたままだ。
——私は、ひとりで立っている。
夫のいない場所で。
夫の優しさが、私のものではない夜に。
視線が、背中に刺さる。
哀れみの視線。好奇心の視線。
“悪役が罰を受ける”という物語を見たい視線。
私はそれらを受け流すふりをした。
ふりをしていれば、立っていられる。
「叶乃様」
また声がした。
今度は、九条夫人の声ではない。
もっと低くて、淡々としていて——聞き慣れた声。
「……透?」
視線を動かさずに呼ぶと、私の隣に影が落ちた。
朝比奈透が、いつの間にか壁際に立っている。
黒いスーツ。無駄のない姿勢。
私の世界に、ひとつだけ“現実”が戻ってくる。
「来たの?」
私は小声で訊いた。
透は頷くだけ。
「メッセージ、見た」
「……今は、無理って」
「だから来た」
透の答えは短い。
でも、その短さが、私の胸を守る。
私は透を見ようとして、やめた。
見たら、泣きそうになる。
「透、ここにいたら——」
「噂になる?」
透が私の言葉を引き取る。
それから淡々と言った。
「もうなってる」
その言い方が、同じ言葉でも救いになる。
“もう終わってるから、守る方に使え”という意味だから。
透は私の少し前に立った。
私を隠すほどではない。
でも、“これ以上近づくな”という距離を作る立ち方。
「……乾杯、する?」
透が小さく聞く。
私に選ばせる。
私は、グラスを握りしめた。
手が震えそうになる。
震えを隠すために、指先に力を入れた。
「……する」
私は言った。
負けたくない。
悪役のまま倒れたくない。
透が、私のグラスの高さに合わせて、自分のグラスを少しだけ上げた。
——触れない。
音を立てない。
“親密な演出”をしない。
それでも、私の胸は少しだけ息をした。
「乾杯」
透が言う。
私も小さく言う。
「……乾杯」
それは、因果応報への乾杯じゃない。
私が私でいるための乾杯だ。
背後で、誰かが舌打ちするように笑った。
「……あら、朝比奈様」
「優しいのねえ」
「奥様、救われたわね」
噂が形を変える。
でも今は、それでいい。
私は“ひとりで立つ”地獄から、少しだけ外れた。
透が私にだけ聞こえる声で言った。
「叶乃。呼吸」
私は、やっと気づく。
また息が浅い。
私はゆっくり息を吸って、吐いた。
透の存在が、呼吸のリズムを取り戻させる。
ステージの上では、寄付の話が続いている。
誰かが笑う。
誰かが褒め合う。
この世界は、何事もない顔で回る。
でも私は知っている。
回廊で見た外套の優しさが、私を壊したことを。
そして——その壊れた私を、今この瞬間、透が支えていることを。
私はグラスを置いた。
指先の震えが、少しだけおさまっていた。
「……帰りたい」
私は、やっと言えた。
小さく。
でも、嘘じゃない声で。
透は頷く。
「帰ろう」
その一言が、今夜いちばんの救いだった。
私は最後にもう一度だけ、ホールの光を見た。
あの光の中で、私はずっと悪役を演じてきた。
——でも、今夜だけは。
ひとりじゃない。
シャンデリアの煌めき。グラスの反射。ドレスの宝石。
明るいのに、冷たい。
弦楽の音が優雅に流れている。
優雅さは、この世界の“蓋”だ。
蓋の下で、どれだけ心が削れても——誰も見ないふりをする。
私は泣いていない。
泣いた痕なんてない。
そういう顔で、壁際へ戻った。
頬に落ちた涙は拭わなかった。
拭うと、崩れる。
崩れたら、負ける。
悪役は、最後まで立っていなければいけない。
グラスを手に取る。
シャンパンの泡が、私の息より元気に弾けていた。
「……叶乃様?」
小さな声が私の名前を呼ぶ。
振り向くと、若い令嬢——桐生家の**美紅(みく)**が、遠慮がちに立っていた。
彼女は噂を“楽しむ側”ではない。
ただ、空気に流される側の人だ。
「こんばんは、美紅さん」
私は笑った。
——笑える。まだ。
「……白石様は……」
美紅が言いかけて、口を閉じた。
聞いてはいけないと分かっている顔。
私は軽く首を傾げる。
「少し立て込んでいるみたい」
嘘をつくのは簡単だ。
嘘の方が、礼儀正しい。
「そう……ですよね」
美紅は困ったように微笑み、視線を泳がせた。
そして、逃げるように去っていく。
逃げる。
それができる人が、羨ましい。
私は壁際の影に身を寄せる。
さっき回廊で折れたものを、光の中で隠すために。
——その時。
乾杯の合図が鳴った。
ステージに立つのは、今夜の主催側。
司会の声が、マイク越しに柔らかく響く。
「皆さま、本日は白石グループ主催の慈善ガラにお越しいただき——」
拍手。
拍手は、ほとんど反射だ。
ここでは感動より、“参加している”という証明のために手を叩く。
そして、主賓の挨拶が続く。
真面目な言葉。社会貢献。未来。希望。
言葉が綺麗すぎて、私の現実と噛み合わない。
「それでは、乾杯を——」
人々が一斉にグラスを持ち上げる。
グラスが光を反射し、ホールが一瞬だけ星空みたいに見えた。
私は遅れてグラスを上げる。
遅れても、誰も気にしない。
気にされるのは、別のことだ。
——ざわり、と。
私の背後で、笑い声が小さく弾けた。
「……ねえ」
「見た?」
「回廊で……」
「外套、掛けてたわよね」
言葉は小さいのに、耳に入る。
耳の奥へ、正確に刺さる。
私は動かない。
動いたら、聞いていることがバレる。
聞いているとバレたら、もっと楽しそうに言う。
噂好きは、標的が反応するのが好きだ。
「やっぱり因果応報ってあるのね」
誰かが言った。
その瞬間、血が引いた。
グラスの縁が、指先に冷たい。
「……可哀想、でも……」
「でも奥様、最初から“奪った”って言われてたじゃない」
「初恋は戻るのよ。ほら、香りみたいに」
「ねえ、乾杯。……因果応報に」
——乾杯。
因果応報に。
私は、目の前が白くなるのを感じた。
音が遠くなる。
弦楽の旋律が、ただのノイズになる。
でも私は、笑っていた。
笑って、乾杯のグラスを軽く口へ運んだ。
泡が舌に弾ける。
甘いのに、苦い。
そのとき、司会の声が続けた。
「本日のご寄付は、未来を担う子どもたちの——」
未来。
子どもたち。
そんな言葉が、今の私にとっては残酷だった。
私の未来は、いま回廊で折れたままだ。
——私は、ひとりで立っている。
夫のいない場所で。
夫の優しさが、私のものではない夜に。
視線が、背中に刺さる。
哀れみの視線。好奇心の視線。
“悪役が罰を受ける”という物語を見たい視線。
私はそれらを受け流すふりをした。
ふりをしていれば、立っていられる。
「叶乃様」
また声がした。
今度は、九条夫人の声ではない。
もっと低くて、淡々としていて——聞き慣れた声。
「……透?」
視線を動かさずに呼ぶと、私の隣に影が落ちた。
朝比奈透が、いつの間にか壁際に立っている。
黒いスーツ。無駄のない姿勢。
私の世界に、ひとつだけ“現実”が戻ってくる。
「来たの?」
私は小声で訊いた。
透は頷くだけ。
「メッセージ、見た」
「……今は、無理って」
「だから来た」
透の答えは短い。
でも、その短さが、私の胸を守る。
私は透を見ようとして、やめた。
見たら、泣きそうになる。
「透、ここにいたら——」
「噂になる?」
透が私の言葉を引き取る。
それから淡々と言った。
「もうなってる」
その言い方が、同じ言葉でも救いになる。
“もう終わってるから、守る方に使え”という意味だから。
透は私の少し前に立った。
私を隠すほどではない。
でも、“これ以上近づくな”という距離を作る立ち方。
「……乾杯、する?」
透が小さく聞く。
私に選ばせる。
私は、グラスを握りしめた。
手が震えそうになる。
震えを隠すために、指先に力を入れた。
「……する」
私は言った。
負けたくない。
悪役のまま倒れたくない。
透が、私のグラスの高さに合わせて、自分のグラスを少しだけ上げた。
——触れない。
音を立てない。
“親密な演出”をしない。
それでも、私の胸は少しだけ息をした。
「乾杯」
透が言う。
私も小さく言う。
「……乾杯」
それは、因果応報への乾杯じゃない。
私が私でいるための乾杯だ。
背後で、誰かが舌打ちするように笑った。
「……あら、朝比奈様」
「優しいのねえ」
「奥様、救われたわね」
噂が形を変える。
でも今は、それでいい。
私は“ひとりで立つ”地獄から、少しだけ外れた。
透が私にだけ聞こえる声で言った。
「叶乃。呼吸」
私は、やっと気づく。
また息が浅い。
私はゆっくり息を吸って、吐いた。
透の存在が、呼吸のリズムを取り戻させる。
ステージの上では、寄付の話が続いている。
誰かが笑う。
誰かが褒め合う。
この世界は、何事もない顔で回る。
でも私は知っている。
回廊で見た外套の優しさが、私を壊したことを。
そして——その壊れた私を、今この瞬間、透が支えていることを。
私はグラスを置いた。
指先の震えが、少しだけおさまっていた。
「……帰りたい」
私は、やっと言えた。
小さく。
でも、嘘じゃない声で。
透は頷く。
「帰ろう」
その一言が、今夜いちばんの救いだった。
私は最後にもう一度だけ、ホールの光を見た。
あの光の中で、私はずっと悪役を演じてきた。
——でも、今夜だけは。
ひとりじゃない。

