ホテルの回廊は、夜になると“静けさ”が高級になる。
足音は絨毯に吸われ、壁の間接照明は影の輪郭だけを丁寧に残す。
遠いホールからは弦楽の音が薄く流れてきて、香水と生花の匂いが空気に層を作っていた。
——噂が生まれる場所だ。
私はそれを知っている。知っているのに、来てしまった。
今夜は白石グループ主催の慈善ガラ。
寄付と社会貢献を掲げながら、実態は“上品な戦場”だ。
妻は出席する。笑って立つ。何もなかった顔をする。
そういう役目を、私はもう何年もこなしている。
ただ一つ、いつもと違うのは——恒一が遅れていること。
スマートフォンの画面には短い一文。
『少し遅れる。先に入っていてくれ。——恒一』
理由はない。温度もない。
私はそれを“いつものこと”として飲み込み、会場へ入った。
笑って、挨拶して、丁寧に相槌を打って、グラスを持って立つ。
けれど心の奥ではずっと、九条夫人の声が鳴っていた。
——初恋って、厄介よ。取り戻したくなるものだもの。
思い出さないふりをしても、香りみたいに入り込む。
息をするたび、胸の奥へ染みついていく。
「白石夫人、今夜もお美しいわ」
「白石様は後から? お忙しいのね」
「最近、遅いって聞きますけど……」
柔らかい声、柔らかい笑み。
それらがいちばん鋭い。
「ええ、おかげさまで」
私は笑って返した。
“おかげさまで”という言葉が、自分でも滑稽に聞こえる。
誰のおかげで、私はこんな顔をして立っているのだろう。
息が浅くなっているのに気づいて、私は席を外した。
化粧室へ向かうふりをして、回廊へ出る。
空気が変わる。
ホールの甘い熱が遠ざかり、冷えた静けさが肌に触れる。
私は壁際の窓に指先を添え、深く息を吸った。
——大丈夫。
口にしかけて、飲み込む。
透の声が頭に残っている。
「その“大丈夫”は使うな」
私は目を閉じた。
息をする。それだけ。
悪役の仮面を、ほんの一瞬だけ緩める。
そのとき、足音がした。
絨毯の上を滑るような、急ぎすぎない足音。
私は反射で背筋を伸ばす。
この世界では、足音の主が誰かで空気が決まる。
曲がり角の向こうから現れたのは、黒いスーツの男だった。
見慣れた背中。無駄のない歩幅。
——白石恒一。
胸が、きゅっと縮む。
遅れると言っていたのに。
いつ来るのかも、どこにいるのかもわからないのに。
姿を見ただけで、私は“妻”に戻される。
私は笑顔を作った。
条件反射みたいに。
「……お疲れさま」
声は出た。ちゃんと出た。
けれどその瞬間、恒一の視線が私を通り過ぎたのがわかった。
私ではない方向へ。
私は息を止めた。
回廊の奥。
壁際のソファの近くに、淡い色のドレスを纏った女性が立っていた。
華奢な肩。柔らかい髪。
守られるのが似合う輪郭。
——一ノ瀬絵里紗。
噂の中心にいたはずの名前が、現実として目の前に立っている。
床は絨毯なのに、足元が冷たい。
絵里紗は恒一を見て、小さく頭を下げた。
懐かしさと安心が混ざった仕草。
それは私が見たことのない種類の“素”だった。
「……久しぶり」
恒一の声が低く落ちる。
その声が——
私の知らない温度で。
私の知らない柔らかさで。
胸の奥が、じくりと痛んだ。
絵里紗が何か言おうとして、咳き込んだ。
小さく、控えめに。
その咳は、守ってほしいという合図みたいに聞こえる。
「大丈夫?」
恒一が言った。
——その言葉を。
私は何度も、家で聞きたかった。
「……少し、冷えて」
絵里紗が小さく言う。
甘えじゃない。弱さの告白。
だから余計に、誰も責められない。
恒一は何も迷わず、自分のジャケットに手をかけた。
肩から外し、絵里紗の方へ近づく。
その動作が、あまりにも自然だった。
まるで昔からそうしてきたみたいに。
まるで、私の知らない“日常”がそこにあるみたいに。
私は声が出なかった。
息を吸うと喉が痛い。
恒一が絵里紗の肩へ外套を掛ける。
丁寧に。
乱れないように指先で襟元を整える。
触れるか触れないかの距離で、彼女を包む。
——優しい。
その優しさは、私が知っている恒一の“必要なことをする優しさ”とは違った。
感情が、そこにある。
絵里紗が目を伏せて、小さく笑う。
「……ありがとう」
「冷えるな」
恒一の声が、また柔らかい。
私はその瞬間、自分がここにいることを思い出した。
妻として声を出さなければいけない。
ここで沈黙したら、私は“負ける”。
悪役は、負けると物語を奪われる。
私は口角を持ち上げた。
でも頬が引きつった。
笑顔が固い。息が浅い。
「……恒一」
やっと呼べたのは、名前だけだった。
恒一がこちらを向く。
視線が私に触れる。
触れて、すぐに温度が消える。
仕事の目。家の目。
“妻”を見る目。
「叶乃。遅くなった」
それだけ。
——それだけ。
私は頷くしかない。
「……そう」
声が震えないように喉を固める。
絵里紗が私の存在に気づいたように、少しだけ身を縮めた。
そして丁寧に頭を下げる。
「白石夫人……一ノ瀬絵里紗です。ご無沙汰しております」
礼儀正しい。完璧だ。
悪意がない。
だからこそ、私は何も言えない。
「……存じております」
私は言った。
声が紙みたいに薄い。
絵里紗は外套の端を握りしめる。
その仕草が、余計に彼女を“守られるべき人”に見せる。
「本日は……少しご挨拶だけ。すぐ戻りますので」
絵里紗が言う。
逃げるように、ではない。
ただ、空気を読んでいる。
恒一が短く頷く。
「無理をするな」
——その言葉。
その言葉を、私は聞いたことがない。
胸の奥が、音を立てずに崩れた。
絵里紗は「はい」と小さく答え、外套を羽織ったまま回廊の奥へ去っていく。
ヒールの音が遠ざかる。
香りが残る。
優しさの残り香。
残ったのは、私と恒一。
静かな回廊。
間接照明が、私の影を長く伸ばしている。
私は笑顔を外せなかった。
外した瞬間、泣いてしまいそうだったから。
「……知ってたの?」
口から出たのは、そんな言葉だった。
責めたくないのに、責める形になる。
悪役の台詞みたいになる。
恒一は私を見た。表情は変わらない。
でも、ほんの僅かに眉が動く。
「……偶然だ」
「偶然?」
「連絡があった。少しだけ顔を出す」
説明は短い。
それで終わり、という結論の置き方。
私は喉が痛かった。
もっと聞きたい。
でも聞いたら崩れる。
聞いたら“疑う女”になる。
悪役になる。
——もう悪役なのに。
「……私、帰る」
自分でも驚くほど冷静な声が出た。
逃げじゃない。避難。
透が教えてくれた言葉。
恒一の目が、わずかに大きくなる。
「まだ、会は——」
「いいの」
私は遮った。遮ってしまったことに驚きながら。
それでも足は止まらない。
止まったら、あの外套の温度をもう一度見てしまう。
私の中の何かが、そこで完全に崩れる気がしたから。
回廊の端、柱の影に差しかかったところで——私はやっと息を吐いた。
吐いた息が震えて、喉の奥が熱くなる。
泣くな、泣くな、と心の中で繰り返しながら。
振り返らずに言う。
言ってしまえば、もう戻れない言葉を。
「……絵里紗さんと、お幸せに」
声は自分でも驚くほど小さかった。
絨毯が音を吸ってくれる回廊でさえ、きっと恒一には届かないくらい。
——届かない方がいい、とも思った。
けれど言葉は、届くか届かないかじゃない。
口にした瞬間、私の胸の奥に刻まれてしまう。
背後で、恒一が息を吸う気配がした。
「……叶乃」
呼び止める声。
いつもと同じ低さ。いつもと同じ短さ。
その声に、私は反射で笑いそうになって——笑えなかった。
「私ね」
私は続けた。
声が震えるのを、奥歯で押さえつけながら。
「あなたの“仕事”って言葉、便利ね」
言ってはいけないことを言っている、と頭のどこかが警告する。
でも、もう止まらない。
「私が何も聞けなくなる。何も言えなくなる。……私が悪役のままでいられる」
背中に視線が刺さる。
振り返らない。
振り返ったら、私はまた“奥様の顔”を作ってしまう。
「……誤解だ」
恒一の声が、少しだけ硬くなる。
誤解。
その一言で、全部が片付く。
誤解だと言えば、私の痛みは“私の勘違い”になる。
「そう」
私は頷いた。見えないはずの頷きを、空気に落とす。
「誤解なら、あなたが解いて」
——言った。
妻としてじゃなく、叶乃として。
沈黙が落ちた。
いつもの沈黙。
だけど今夜は、その沈黙が私の心臓を薄く削る。
私は、喉の奥が痛くて、最後にもう一度だけ小さく言う。
押し付けじゃない。哀願でもない。
ただ、最後の礼儀みたいに。
「……本当に。絵里紗さんと、お幸せに」
言葉が落ちた瞬間、目の奥が熱くなった。
涙が滲む。
でも私は歩いた。ヒールの音が乱れないように。
悪役のまま、退席するために。
背後で恒一が何か言いかけた気配がした。
けれど私は聞かなかった。
聞いたら、戻ってしまうから。
回廊の角を曲がった瞬間、頬を伝うものが落ちた。
涙だ。音はしない。
でも、私の中で何かが決定的に折れた音がした。
ホールの入口が見えてくる。
音楽と光が、また私を“奥様”へ引き戻そうとする。
私は涙を拭わなかった。
拭う時間も、拭う気力もない。
ただ、顔を上げた。
悪役は、泣き顔で歩けない。
——だから私は、泣いているのに微笑んだ。
ホールへ戻る直前、スマートフォンが震えた。
画面には、透の名前。
私は出なかった。
出た瞬間、声が崩れてしまうから。
代わりにメッセージだけ打つ。
『今は無理。帰る』
送信した瞬間、胸が少しだけ軽くなった。
逃げじゃない。避難だ。
そして私は、白石家の“妻”として、
もう一度だけ今夜の舞台へ戻った。
悪役の仮面を、壊れないように支えながら

