優しさの行き先

 車のドアが閉まった瞬間、外の世界が遠のいた。
 玄関灯の白い光も、門の重さも、白石家という名前の圧も、ガラス一枚の向こうに押しやられる。

 残ったのは、エンジンの低い音と、シートヒーターの穏やかな温度。
 そして——息の仕方を忘れたみたいな私。

 透はすぐに車を出さなかった。
 キーを回したまま、ハンドルに両手を置き、前だけを見ている。
 私に「話せ」とも「泣け」とも言わない。

 その沈黙が、怖いほど優しい。

「……どこへ行くの」
 私が先に口を開いた。声が、少しだけ擦れていた。

「海は遠い」
 透は淡々と言って、ほんの僅かに口角を上げた。
「近いとこ。駐車できて、人目が少ないとこ」

 冗談みたいなのに、救われる。
 “特別な場所”じゃない。
 今の私に必要なのは、ドラマじゃなく、逃げ場だ。

 透はウインカーを出し、車をゆっくり動かした。
 門を抜けるとき、私は反射で振り返った。
 白石家の門灯が、雨上がりの路面に淡く滲んでいる。

 ——あそこに、私の居場所はあるのだろうか。

「見なくていい」
 透が前を向いたまま言った。

「……見ちゃう」
 私は自嘲するように笑ってしまった。
「私、奥様だから。帰る場所を見なきゃいけない」

 透は、少しだけ間を置いて言う。

「“奥様”やめろって言っても、やめないだろ」
「うん」
「なら、せめて今だけは——叶乃でいろ」

 その言葉が、胸の奥を正確に叩いた。
 叶乃。
 久しぶりに呼ばれた気がする。
 白石夫人じゃない、悪役じゃない、ただの私。

 車は静かな通りへ入った。
 コンビニの灯り。自販機の白。
 日常が、ちゃんとそこにある。
 私だけが、そこからずれているみたいだ。

「……透」
 私は喉の奥が熱くなるのを感じながら言った。
「私、今日……九条夫人から電話が来たの」

 透は頷くだけで、続きを促さない。
 促さないからこそ、私は言ってしまう。

「絵里紗の名前を、はっきり言われた」
 言った瞬間、胸が締まる。
 “初恋”の二文字が、口の中を苦くする。

 透は一度だけ大きく息を吐いた。

「……あの人は、楽しんでる」
 怒りを爆発させない。
 事実として置くだけ。

 私は俯いた。
 膝の上で指を握りしめる。爪が掌に食い込む。

「私、笑えなくなったって言ったら……透が来た」
「笑えなくていいからだ」
 透が即答する。
 その即答が、怖い。
 私の“仮面”が役に立たない場所に連れて行かれる感じがする。

 車が小さな公園脇の駐車スペースに入った。
 透は車を停め、エンジンを切った。
 静けさが落ちる。

 外では、風が木を揺らしている。
 葉の擦れる音が、妙に近い。

 透はシートベルトを外さず、私の方も見ないまま言った。

「叶乃。確認だけする」
「……なに」
「今、家に戻りたくないか」
 短い質問。
 答えが出やすい形。

 私は息を吸って、吐いてから答えた。

「……戻りたくない」
 言った瞬間、涙が出そうになった。
 “戻りたくない”は、妻が言ってはいけない言葉みたいで。

 透は「そうか」とだけ言った。
 責めない。
 驚かない。
 その普通さが、私を泣かせそうにする。

「……でも、戻らなきゃ」
 私は続けた。
 矛盾しているのに、これが本音だ。
「私、いなくなったら……余計に噂になる。白石家にも迷惑が——」

「噂のために生きるな」
 透が、初めて少しだけ強い声で言った。

 私は肩を跳ねさせた。
 怒られたわけじゃない。
 “正しい叱り”は、心の奥に刺さる。

「……ごめん」
 反射で言ってしまう。
 謝る癖。
 悪役の癖。波風を立てない癖。

 透が、即座に返す。

「謝るな」
 その短さが、私の涙腺を揺らす。

 透はやっと私の方へ視線を向けた。
 目が合うと、私は咄嗟に笑おうとする。
 でも笑えない。
 口角が動かない。

「叶乃」
 透が呼ぶ。
 名前だけで、胸がほどけそうになる。

「……私ね」
 私は言葉を探した。
「恒一を疑いたくないの。疑ったら……私が、“初恋を奪った女”みたいになる」

 透は少しだけ眉を寄せた。
 怒りじゃない。痛みの眉。

「叶乃。もうそう言われてる」
 静かな指摘。
 私は目を閉じた。
 耳の奥に、九条夫人の声が蘇る。

——“取り戻したくなるものだもの”

「……ねえ透」
 私は声を震わせた。
「もし、本当に恒一が絵里紗のこと……好きだったら」

 言った瞬間、胸が痛い。
 痛いのに、言わずにいられなかった。

 透は、すぐに答えを出さなかった。
 その間が、優しい。
 軽い言葉で慰めない、と決めている間。

「好きだったとしても」
 透はゆっくり言った。
「今の叶乃を、踏みにじっていい理由にはならない」

 私は息を止めた。
 涙が、目の奥に溜まっていく。

「踏みにじられてるって……私が大袈裟なだけじゃない?」
 私は自分を責める癖で言った。
 大袈裟、考えすぎ、気にするな。
 そう言われ慣れている。

 透は首を横に振る。

「大袈裟じゃない」
 短く、はっきり。
 断言されると、怖い。
 でも、救われる。

「……だって」
 私は言い訳みたいに続けた。
「恒一は、優しいの。必要なことはしてくれる。家のことも、私の体面も……」

 透は、そこで言葉を挟まない。
 私が“恒一を悪者にしたくない”気持ちを壊さない。
 壊さないまま、別の角度を差し込む。

「必要なことだけして、必要な言葉をしない」
 透が言った。
「それは、優しさじゃなくて……不器用って言うんだ」

 不器用。
 そう、恒一は不器用だ。
 だから許してきた。
 許して、笑って、耐えて——今こうなった。

 私の喉が詰まり、言葉が出ない。
 涙が出る。
 出そうになる。
 私は必死に堪えた。
 堪える癖が、体に染みついている。

 透が、少しだけ声を落とす。

「叶乃。泣いていい」
 その一言が、致命的だった。

「……泣く権利、ないよ」
 私は、かすれた声で言った。
「泣いたら、私が被害者ぶってるって言われる。悪役なのに、って——」

 透が、私の言葉を途中で止めない。
 最後まで聞いてから、静かに言う。

「それは“外”の話だ」
「……外?」
「社交界とか、白石家とか、九条夫人とか。……叶乃が泣けない理由は、全部外だ」
 透の目が、私を捉える。
「ここは外じゃない。ここは……車の中だ。俺しかいない」

 その現実が、急に胸に落ちた。
 車内。
 密閉された小さな空間。
 香りの噂も、視線も、ここには入ってこない。

「……私、泣いたら」
 私は息を吸った。
「戻れなくなる気がする」

 透は、少しだけ首を傾げる。

「戻れなくなるなら、戻らなくていい瞬間がある」
 その言葉は、乱暴じゃない。
 選択肢を、私に返す言葉だ。

 私は目を閉じて、呼吸を整えようとした。
 でも整わない。
 涙はもう、止まらない。

 ぽろ、と頬に落ちた。
 次も、次も。
 堰が切れたみたいに、音もなく。

 私は慌てて袖で拭こうとする。
 透はそれを止めない。
 ハンカチを差し出さない。
 触れない。
 ——私の泣き方を、私のものにしてくれる。

「……ごめん」
 私はまた謝ってしまう。
 透が、低く言った。

「謝るな」
 同じ言葉。
 でも今は、胸の奥に落ちた。

 私はハンドルの影を見つめながら、震える声で言った。

「私、ずっと……悪役でいたの」
 涙が視界を歪ませる。
「だって、悪役でいる方が楽だった。怒らなくていい。期待しなくていい。……傷ついたって言わなくて済む」

 透は、黙って聞く。
 それが、いちばんの寄り添いだ。

「でも、今日……絵里紗の名前を聞いたら」
 私は息を詰まらせた。
「私、笑えなくなった。固まって……何もできなかった」

 透が、静かに言う。

「それが普通だ」
「……普通?」
「叶乃は、人間だ」
 透は淡々と言った。
「悪役じゃない」

 その言葉が、涙を増やした。
 私は肩を震わせて、声を抑えようとして、できない。

「……透」
「うん」
「私、どうしたらいいの」
 弱い言葉が出た。
 私はこんな言い方をしたことがない。
 いつも“正しい奥様”で、答えを出す側だった。

 透はすぐに答えを出さない。
 代わりに、確認する。

「今日、家に戻るか?」
 私は迷い、そして小さく首を振った。

「……今は、戻りたくない」
「じゃあ、戻らない」
 透はそれを決定事項のように言った。
 私の迷いを、責めずに切り取ってくれる。

「……でも、泊まる場所が」
「ホテル取る」
 即答。現実的。
 陰謀もドラマもない。
 ただ、今夜の安全を作る。

「透……それ、迷惑じゃ」
「迷惑なら来ない」
 透は短く言った。
「来てるってことは、迷惑じゃない」

 私はまた涙を拭いた。
 透は見ないふりをしない。
 でも、見つめもしない。
 視線の温度がちょうどいい。

「……恒一に連絡、入れた方がいいよね」
 私が言うと、透は一拍置いた。

「叶乃が決めろ」
 それから続ける。
「ただ、今の叶乃が“奥様”としてじゃなく、“叶乃”として選べ」

 私は唇を噛んだ。
 スマートフォンを取り出す。
 恒一の名前が、画面にある。
 押すだけで繋がる。
 なのに、指が動かない。

 透が、静かに言う。

「……怖いなら、今はやめろ」
 その言葉に、私は救われてしまった。
 逃げてもいい、と言われた気がして。

「逃げてるのかな」
 私が呟くと、透は首を横に振る。

「逃げじゃない。避難だ」
 その言い方が、あまりにも優しくて、私はまた涙が落ちた。

 透は窓の外へ視線を向け、最後にぽつりと言った。

「叶乃。泣けたなら、今日は勝ちだ」
 勝ち。
 そんな言葉を、こんな場面で言われるとは思わなかった。

 私は涙で濡れた頬のまま、少しだけ笑ってしまった。
 初めて、誰のためでもない笑い。

「……透、変な人」
「よく言われる」
 透も、少しだけ笑う。

 車内の空気が、ほんの少しだけ軽くなる。
 噂の香りは、ここには届かない。
 ただ、雨上がりの夜の匂いがする。

 私は呼吸をした。
 深く。
 久しぶりに、肺の奥まで空気が入る。

 ——この夜が、私の“最初の寄り添い”になる。
 そんな予感が、静かに胸に残った。