優しさの行き先

 白石家の朝は、音が少ない。
 カーテンを引く音すら、礼儀正しく小さくなる。
 私はその静けさに慣れたはずなのに、今朝は胸の奥がずっとざわついていた。

 テーブルの上に置かれたスマートフォンが、ふいに震える。
 画面に出た名前は、透ではなかった。

 九条夫人

 ——嫌な予感が、先に息を吸った。

 私は指先で画面を滑らせる。

「もしもし」
『あら叶乃様。昨日は、突然お帰りになって……お加減はいかが?』

 声は甘い。
 心配しているふりの声。
 でも、この人の“心配”はいつも、噂の燃料だ。

「おかげさまで、もう大丈夫です」
 私は淡々と答える。
 大丈夫という言葉を、透に禁じられたばかりなのに。
 癖は、簡単に消えない。

『それならよかったわ』
 九条夫人は、嬉しそうに息を吐いた。
『実はね、叶乃様。ちょっとだけ……教えて差し上げたいことがあるの』

 ——教えて差し上げたい。
 親切の形をした刃。

「何でしょう」
 私は声の温度を落とさないように、慎重に聞いた。

『白石様のことで……』
 その言葉が出た瞬間、私の肩が僅かに固くなる。
 電話越しなのに、見られている気がした。

『最近、白石様……会われているそうよ』
「……誰と?」
 聞いてしまった。
 自分で自分が怖い。
 聞いた瞬間、悪役の台詞みたいに響くのがわかる。

 九条夫人は、待っていたように微笑んだ気配を混ぜた。

『もちろん……一ノ瀬絵里紗様よ』

 ——その名が、耳の内側で音を立てた。

 一ノ瀬絵里紗。
 初恋。
 社交界の“ヒロイン”。

 私は、笑わなければと思った。
 笑って、軽く流して、終わらせなければ。
 けれど——口角が動かない。

 笑顔が、固まった。

「……そうですか」
 声だけが先に出た。
 喉が乾く。
 心臓が、やけに大きく鳴る。

『叶乃様。驚かないのね』
 九条夫人が言った。
 驚かない=強い、の評価。
 でも実際は違う。驚きすぎて、動けないだけ。

「……驚くようなことではありません」
 私は嘘をついた。
 嘘をつきながら、自分の手が冷たくなっていくのを感じる。

『あら、さすが。やっぱり奥様はお強いのね』
 九条夫人は満足げだ。
『でもね……“初恋”って、厄介よ。取り戻したくなるものだもの』

 その一言が、胸に刺さった。
 取り戻す。
 ——私は、奪った側として確定されている。

「……九条夫人」
 私は名前を呼んだ。
 声が揺れないように、ゆっくり。

『なぁに?』
「……ご心配ありがとうございます。ですが、主人の交友関係については私から申し上げることはありません」
 正論。
 礼儀。
 そして逃げ道。

 九条夫人は、笑いを含んだ声で言う。

『えええ、もちろんよ。奥様が何かする必要なんてないわ』
 ——そう。
 “何かする”のは、あなた達だ。

『ただね、叶乃様。社交界って、香りみたいに広がるでしょう?』
 九条夫人が、甘く囁いた。
『誰かが言わなくても、勝手に広がるの。あなたの耳にも、いずれ届くことだから……』

 私は受話器を握りしめた。
 爪が掌に食い込む。

『それに……』
 九条夫人が息を吸う。
 ここからが本題だ、とわかる。

『昨日、あなたをお送りになった方……朝比奈様? あの方、優しいのねえ』
 それは、花びらみたいに見せかけた火種だった。

「……幼なじみです」
 私は短く答えた。
 これ以上の説明は、物語を与える。

『ふふ。そうよね。幼なじみって……“寄り添う”ものよね』
 九条夫人は楽しそうだ。
『ねえ叶乃様。もし白石様が初恋を取り戻すなら、あなたには——』

「失礼します」
 私は、その言葉を最後まで聞かなかった。
 電話を切った指先が、震えている。

 ——いけない。
 ここで崩れたら、噂は私の涙まで材料にする。

 私は深呼吸をして、窓際へ歩いた。
 朝の光が、床にまっすぐ伸びている。
 眩しい。
 こんなに眩しいのに、心の中は暗い。

 その時、背後で扉が開く音がした。

「奥様」
 深山が控えめに頭を下げる。
「本日、白石様のご予定の変更がありまして……夕食は不要とのことです」

 私は、息を止めた。
 昨日も。今日も。
 不要。
 ——私も、いずれ不要になるのだろうか。

「……わかりました」
 私は微笑んだ。
 微笑みは戻った。
 でもそれは、温度のある笑みじゃない。

 深山が去り、家にまた静けさが落ちる。
 私はキッチンのカウンターに手をつき、指輪を見た。

 これが“妻”の証。
 なのに、私が妻である証拠を、私だけが握りしめているみたいだ。

 スマートフォンが、また震えた。
 今度は透。

 私はすぐ出た。
 出た瞬間、声が少しだけ揺れた。

「……もしもし」
『叶乃。今、大丈夫か』

 大丈夫か。
 透は、私の“声の揺れ”を拾う。

「大丈夫」
 言いかけて、私は止めた。
 透の言葉が頭に残っている。

 ——その“大丈夫”は使うな。

 私は、代わりに言った。

「……聞いた」
『何を』
「絵里紗の名前」
 言った瞬間、喉が熱くなる。
 涙が出そうになるのを、歯を食いしばって堪える。

 透が短く息を吐いた。

『誰から』
「九条夫人」
『……そうか』
 透の声が低くなる。怒りじゃない。
 “状況の悪さ”を理解した声。

『叶乃。今日は、会える?』
 透の問いは、具体的だ。
 慰めじゃなく、行動の提案。

「……会ったら、余計に噂になる」
 私は言った。
 まだそこに縛られている。噂の視線に。

 透は、淡々と言う。

『噂は止まらない。止められるのは、叶乃の呼吸だけ』
 その言葉が、胸の奥を正確に刺した。

「……透」
 声が小さくなる。
「私ね、笑えなくなった」
 告白みたいに、こぼれた。

 透が、すぐに言う。

『笑わなくていい。今日は』
 その肯定が、危ない。
 泣いてしまいそうになる。

「でも、私が笑わないと——」
『誰が悪役を演じろって言った』
 透の声は強くない。
 ただ、真っ直ぐだ。

 私は黙った。
 黙ったまま、指輪を撫でる。
 冷たい金属が、現実を返してくる。

「恒一に聞けばいいのに」
 私が自分を責めるように言うと、透は少しだけ間を置いた。

『聞けない理由があるんだろ』
 言い当てられて、胸が痛む。

「……聞いたら、終わりそうで」
 私は、やっと言った。
「“仕事”だって言われたら、それ以上、何も言えない。疑う私が悪役になる」

 透は、静かに言う。

『疑うのが悪役じゃない。疑われる状況にしてる方が悪い』
 昨日も聞いた言葉。
 今日聞くと、胸の奥に少しだけ根を張る。

『叶乃。外に出ろ。俺が迎えに行く』
 透は決めつけない。
 でも、選択肢を狭めてくれる。私が動けるように。

「……玄関までなら」
『十分』
 透が即答した。
『十分だから、そこまででいい』

 私は頷いた。
 頷いて、通話を切った瞬間、膝が少しだけ緩む。

 ——初恋。
 その二文字が、私の中でずっと鳴っている。
 私は妻なのに。
 妻である証拠を持っているのに。
 彼の“優しさ”の行き先を、私は知らない。

 玄関の時計が十一時を告げる。
 透は、本当にすぐ来た。
 チャイムが鳴る。

 扉を開けると、透が立っていた。
 いつものように整った顔。
 けれど目だけが、少しだけ厳しい。

「……来た」
 私が言うと、透は頷いた。

「来た」
 それから、玄関の敷居の外側で立ち止まる。
 入らない。噂を作らない。
 でも、逃がさない。

「叶乃」
 透が呼ぶ。
 私は返事をしようとして、できなかった。
 胸が詰まって、喉が鳴らない。

「笑わなくていい」
 透が言った。
 それが、最後の楔みたいに刺さる。

 私は、やっと息を吐いた。

「……私、怖い」
 初めて、弱音が言葉になった。
 悪役の仮面の隙間から、ほんの少しだけ。

 透は、手を伸ばさない。
 近づきもしない。
 でも、声だけで私の隣に立つ。

「怖いって言えるのは、まだ壊れてない証拠だ」
 淡々と、優しくない優しさ。

 私は目を伏せた。
 涙が落ちそうになるのを、こらえる。
 こらえる代わりに、透に聞いてしまう。

「……透。もし本当に、恒一が初恋を取り戻したら」
 言いかけて、喉が痛む。

 透は、短く答えた。

「その時は、その時の叶乃が決めろ」
 逃げ道じゃない。
 責任を私に返す言い方。
 でも、私を子ども扱いしない、信頼でもある。

 透は、ゆっくり言う。

「俺は、叶乃を悪者にしない」
 その言葉で、私はとうとう笑えなくなった。
 涙が、目の奥に溜まる。

 ——初恋の名が出た。
 それだけで、私の笑顔は固まった。
 でも、固まった笑顔の下で、
 私の心は少しだけ“生きたい”と思ってしまった。

 透が来たから。
 寄り添う人が、いると知ってしまったから。