優しさの行き先

 車寄せの風は、昼でも冷たかった。
 高層ビルの谷間を抜けてくる風は、香水の残り香や、上等な布の匂いをまとめて攫っていく。
 それでも、胸にへばりついたものだけは剥がれない。

 九条夫人の邸宅を出るとき、私は最後まで笑っていた。
 扉の向こうにある“甘い香りの地獄”を、なかったことにするみたいに。

「叶乃様、お大事に」
「またゆっくりお茶を」
「白石様にもよろしくね」

 背中に投げられる言葉は、すべて柔らかい。
 柔らかいからこそ、棘がよく刺さる。

 私は車寄せの前で立ち止まり、手袋の指先を整えた。
 誰もいないのに、姿勢を正す。
 “奥様”でいるのが癖になっている。

「送る」
 少し離れた場所から、透の声がした。

 朝比奈透。
 黒いコートに、無駄のない身のこなし。
 いつもと同じ。
 それが、泣きそうになるほどありがたい。

「……大丈夫よ」
 私は、反射で言った。
 癖だ。大丈夫じゃない時ほど、そう言う。

 透は、私の言葉を受け流すみたいに首を傾げた。

「大丈夫なら、送らせて」
 押しつけじゃない。
 “叶乃の大丈夫”を否定しないまま、別の道を用意する言い方。

 私は小さく笑った。

「透って、いつもそう」
「そうって?」
「……断らせない言い方をする」
 私が言うと、透はほんの少しだけ口角を上げた。

「断らせないんじゃない。断りやすい理由を潰してるだけ」
 淡々と言って、透は車のドアを開けた。
 私に手を差し出さない。
 その距離が、彼の礼儀だ。
 そして、彼の“寄り添い方”だ。

 私はそのまま車に乗り込んだ。
 シートは温かい。
 温度がある、というだけで少しだけ息がしやすくなる。

 扉が閉まる音が、外の世界を遮断する。
 ガラスの向こうで、九条夫人の家が小さくなっていく。
 香りが薄れていく。
 なのに、噂の言葉だけは濃く残る。

 透が運転席に乗り込み、エンジンをかける。
 ハンドルを握る手は、落ち着いている。

「……どこまで送ればいい」
 透が聞いた。

「家よ」
 私は答えてから、苦笑した。
「当たり前よね。白石家の“奥様”だもの」

 透はアクセルを踏み、車は滑るように走り出した。
 信号待ちの赤が、フロントガラスに淡く映る。

「奥様、ね」
 透が小さく繰り返した。

 私は窓の外を見た。
 街は忙しくて、誰も私の噂なんて知らない顔で歩いている。
 それが、少し羨ましい。

「今日、何か言われた?」
 透の問いは短い。
 “何があったのか全部言え”じゃない。
 言える範囲でいい、という問い。

「……いつもの」
 私は笑おうとした。
「“初恋を奪った女”って」

 透が、眉だけ僅かに動かした。
 怒りを大きくしない。
 私が怯えないように。

「……名前まで出た?」
「出たわ」
 私は答えた瞬間、胸の奥がつんと痛んだ。
「絵里紗の」

 透は、短く息を吐いた。

「そうか」
 それだけ。
 慰めの言葉を積まない。
 積めば、私が崩れるのをわかっている。

 信号が青に変わる。
 車は流れに乗る。

「私、笑ってた」
 私は、ぽつりと呟いた。
「“幸せです”って言った。……言わなきゃ、負けるから」

 透の声が、少しだけ低くなる。

「叶乃。今日は帰ろう」
 私は、反射で首を横に振った。
 もう帰っているのに。
 でも私の中では、まだ“サロンの中心”に立っている。

「帰ったら、余計に噂になる」
 透は、即答しない。
 ハンドルを微調整し、車線変更をしてから、静かに言った。

「もう噂になってる」
 事実だけ。
 その事実が、私の背骨を支える。

「……透」
 私は名前を呼んだ。
 声が少しだけ震える。
 透は視線を前に向けたまま続ける。

「叶乃が、笑うのをやめたら終わる世界なら、終わっていい」
 その言葉が、胸の奥を強く叩いた。

「終わったら、私は——」
「叶乃は叶乃だよ」
 透は、私の言葉を遮らないのに、結論だけを先に置く。
 揺らがない結論。

 私は唇を噛んだ。
 泣くな。泣くな。
 何度も自分に言い聞かせる。

「……私、惨めなのが嫌なの」
 声が小さくなる。
「夫が遅い。理由を聞けない。聞いたら……私が疑う女になる。悪役みたいになる」

 透が、わずかに首を傾げた。

「叶乃。疑うことは、悪役じゃない」
「でも……」
「疑われるような状況を作ってる側がいる」
 透の言葉は冷静で、だからこそ痛い。
 私が避けてきた現実を、丁寧に言語化するから。

 私は呼吸が浅くなった。
 胸が、ぎゅっと縮む。

「……恒一は、悪い人じゃない」
 私は、必死に言った。
 夫を悪者にしたくない。
 悪者にした瞬間、夫婦は終わってしまう気がして。

 透は、肯定も否定もしない。
 ただ、私の“願い”を壊さない声で言う。

「悪い人じゃなくても、人は人を傷つける」
 静かな言葉。
 それが、いちばん残酷で、いちばん真実だった。

 私は目を閉じた。
 サロンで浴びた視線が、まぶたの裏に蘇る。
 花の香り。笑い声。
 そして、絵里紗の名前。

「……透、私ね」
 言いかけて、喉が詰まった。

 透が、ほんの少しだけ声を落とす。

「言わなくていい。今は」
 その優しさが、逆に涙を誘う。

 車は白石家の門の前に着いた。
 重い門扉。
 灯り。
 整いすぎた静けさ。

 透は車を停めたが、すぐに降ろそうとしない。
 エンジン音だけが、狭い車内に残る。

「叶乃」
 透が呼ぶ。
 私は返事ができなかった。
 呼ばれるだけで、胸がいっぱいになる。

「今日は、帰ろう」
 透がもう一度言った。
 その“帰ろう”は、家に帰るという意味じゃない。
 ——無理して笑う場所から、帰ろう。
 そういう意味だ。

 私は、ようやく小さく頷いた。

「……うん」
 言葉にした瞬間、涙が喉の奥までせり上がる。
 私は必死に飲み込んだ。

 透が、ドアのロックを解除した。

「行ける?」
「行ける」
 私は答えて、ドアに手をかける。
 外の冷気が頬に触れる。

 透は最後に、低い声で言った。

「叶乃。俺は、家の中には入らない」
「どうして」
「余計な噂を作らせない」
 淡々とした言葉。
 彼は私を守るために、“踏み込まない”を選ぶ。

 私は息を吸った。
 涙の匂いを、冷たい空気で押し戻す。

「……ありがとう」
 私が言うと、透は小さく頷いた。

「礼はいらない」
 それから、少しだけ口元を緩める。

「——ただ、無理な日は無理って言え」
 私は笑おうとして、やめた。
 笑う必要は、もうない気がした。

 私は門をくぐり、白石家の玄関へ向かう。
 背後で車のエンジン音が遠ざかる。
 けれど、その音は私の中に残った。

 “味方がいる”という音。
 “私は悪役だけじゃない”という音。

 玄関の扉を閉めた瞬間、家の静けさが戻る。
 でも私は、さっきまでと違う呼吸をしていた。

 息が、少しだけ深い。

 ——そして、私は気づいてしまった。
 今日のサロンで浴びた言葉よりも、
 透の「帰ろう」の方が、ずっと私の心を動かしたことに。