昼下がりのサロンは、夜より残酷だ。
照明は柔らかく、花は瑞々しく、ティーカップは白磁のまま静かに光る。
——すべてが“上品”に整っているからこそ、言葉の棘だけが際立つ。
九条夫人の邸宅。
白い階段を上がり、重い扉が開いた瞬間、香りが押し寄せた。
薔薇、すずらん、そして柑橘の甘さ。
噂は、いつもこういう香りの中で生まれる。
「叶乃様、お待ちしておりましたわ」
九条夫人は、まるで女主人というより舞台の演出家のように笑った。
「お招きいただき、ありがとうございます」
私は正しい角度で頭を下げ、微笑む。
その微笑みは、昨日の夜から少しも変わっていない。
変えない。変えられない。
サロンにはすでに十数人の夫人と令嬢が集まっていた。
視線が、ひと斉に私へ向く。
私の髪、私のドレス、私の指輪、そして——指輪の隣にいるべき人の不在。
「まあ……今日もおひとり?」
誰かが囁いた。囁きは、柔らかい布で包まれているようで、実際は鋭い。
「主人は急な打ち合わせが入りまして」
私は軽く首を傾げ、さらりと言った。
“夫の不在を説明する”ことが、いつの間にか私の仕事になっている。
「白石様、本当にお忙しいのねえ」
「でも、最近“急な打ち合わせ”が多いって……」
低い笑い声が混ざる。
笑いは、同意の合図だ。真実でなくても。
私はカップを手に取り、紅茶の表面に映る自分を見た。
よく出来た人形みたいだと思う。
笑う角度まで、練習したみたいに整っている。
「叶乃様、こちらへ」
九条夫人が私を“中心”へ誘導する。
ここで中心に立つのは、私が望んだからではない。
中心に置けば、見世物がよく見えるから。
席に着くと、銀のトレイにマカロンや小さな焼き菓子が並べられた。
甘い香り。
それでも、口の中は苦い。
「今日はね、皆さんにぜひ見ていただきたいお花があるの」
九条夫人が嬉しそうに言った。
「白石家の奥様に相応しい、淡い色の……ねえ叶乃様、こういう色、お好きでしょう?」
花瓶の中の淡い花。
白に近いピンク。傷つきやすそうな色。
私は頷く。
「ええ、とても」
それは嘘ではない。
だけど、彼女たちが見たいのは私の“好み”じゃない。
「白石様の“好み”も、そうだったのかしら」
誰かがぽつりと落とした。
——その瞬間、場が静かになる。
私は、カップを置いた。
置く動作だけは丁寧に。音を立てないように。
音が立つと、“動揺”に変換される。
「……白石は、そういうことを話す人ではありませんわ」
私は微笑む。
微笑んで、逃げる。
九条夫人が扇子を揺らし、柔らかく笑った。
「まあ。だからこそ、皆が気になるのよね」
彼女は言った。
“皆”という言葉は便利だ。自分の悪意を薄めてくれる。
「叶乃様、最近お顔が少しお疲れじゃない?」
別の夫人が心配そうな顔を作る。
心配の顔は、たいてい刃物だ。
「そんなこと……」
私は否定しかけて、やめた。
否定は長引く。長引けば、材料になる。
「大丈夫です。よく眠れています」
私は、もっともらしい嘘を添えた。
すると九条夫人が、待っていたように言う。
「眠れるって、素晴らしいわ。だって——最近、あの方の噂が出ているでしょう?」
“あの方”。
名を言わない。名を言わないことで、期待を煽る。
周りの令嬢たちが、目を輝かせる。
まるで、箱の蓋が開くのを待っているみたいに。
「……あの方?」
私が知らないふりをすると、九条夫人は楽しそうに首を傾げた。
「叶乃様ったら。知らないふりはお上手ね」
上手。
そう、私は上手になった。
悪役は、泣かないための技術を身につける。
「一ノ瀬絵里紗様よ」
若い令嬢が、はっきりと口にした。
——名前が出た瞬間、空気が甘く変わった。
花の香りが、急に濃く感じる。
噂が香りみたい、と言ったのは誰だったか。
香りは目に見えないのに、確実に肺の中へ入ってくる。
「久しぶりにお戻りになったそうね」
「ほら、海外にいらしたでしょう?」
「お綺麗だったわぁ……あの方、守ってあげたくなるのよね」
守ってあげたくなる。
その言葉は、私を刺す。
私は守られる側じゃない。
私は守られると“奪った”に見えるから。
「白石様、会っているって……」
囁きが落ちる。
落ちた途端に、周囲がそれを拾って繋げ始める。
「目撃した方がいるって」
「車寄せで、ほら……黒い車」
「会員制ラウンジで、二人きりだったとか」
目撃談は、証拠じゃない。
でも社交界にとって、目撃談は“物語の骨格”だ。
骨格ができれば、肉は勝手につく。
私は笑っていた。
頬が固い。
笑顔が、石膏みたいに固まっていく。
「……そうなのですか」
口が勝手に動いた。
声は、ちゃんと出ている。
でも遠い。自分の声じゃないみたい。
「叶乃様、ねえ」
九条夫人が、同情の顔をつくる。
その同情の下に、好奇心が見える。
「あなた、最初から“悪役”って呼ばれていたでしょう?」
突然、核心を刺してくる。
上品な場で、あえて下品な真実を言う快感が、彼女の目にあった。
私は息を吸った。
鼻の奥に花の香り。
吐く息が、少しだけ震える。
「……皆さまは、そう言いたいのね」
私は微笑む。
微笑みながら、胸の奥を冷たくする。
「だって」
令嬢が無邪気に笑う。
「白石様の初恋は絵里紗様で、奥様は途中から入ってきた……じゃない? だから……」
“奪った”。
その言葉は言わない。
でも、全員の頭の中で同じ字幕が浮かんでいる。
私は、カップの取っ手を握った。
指先に力が入る。
割れないように、力を調整する。
心も同じだ。割れないように力を調整し続けている。
「……私の結婚は、家同士のご縁です」
私は淡々と告げた。
「誰かから奪ったものではありません」
「まあ、正論」
九条夫人は嬉しそうに笑った。
正論が出たら勝ち、と思っている。
正論は、痛みを無視できるから。
「でもねえ叶乃様」
九条夫人が扇子を閉じ、声を少し低くする。
「正論だけじゃ、幸せになれないのよ」
——言わないで。
私は胸の奥で叫ぶ。
でも声は出ない。出したら負ける。
悪役は、ここで感情を出してはいけない。
「幸せですわ」
私は言った。
嘘だと思われないように、少しだけ笑みを足す。
「主人は、私を大切にしてくれています」
その瞬間、誰かが小さく笑った。
笑いの中に、ひっかかりが混ざっている。
「大切、ねえ」
「でも、帰りが遅いのは……」
「会っているなら……」
言葉は、花びらみたいに落ちていく。
花びらは綺麗だ。
でも、積もると息ができなくなる。
私は立ち上がった。
唐突に見えないように、自然なタイミングを装う。
「申し訳ありません、少しお手洗いへ」
九条夫人が笑って頷く。
「どうぞどうぞ。ゆっくりね」
“ゆっくり”の中に、逃がさないという響きがある。
廊下へ出ると、香りが薄くなった。
代わりに、冷えた空気が肺に入ってくる。
私は壁際で一度立ち止まり、指先でこめかみを押さえた。
——泣くな。
泣いたら、全部持っていかれる。
「叶乃」
背後から呼ばれた。
振り向くと、透が立っていた。
どうしてここに、と思うより先に、胸の奥がほどけそうになる。
「透……?」
私は声を整えようとして失敗した。
透は一歩近づき、私の顔を見た。
その視線は、噂の視線と違う。
見世物を見る目じゃない。生きている人を見る目。
「ここ、来てたのか」
「……来てたわ」
「……顔」
透はそれ以上言わない。言わなくても、伝わるから。
私は笑おうとした。
でも、笑えない。
笑いが、喉の奥で引っかかった。
「大丈夫」
私が言うと、透が小さく首を振った。
「大丈夫じゃない時に、その言い方する」
淡々とした声。責めない。
ただ、真実だけを置く。
私は視線を落とした。
床のカーペットが、静かに模様を描いている。
上品な柄。上品な地獄。
「……絵里紗の名前が出た」
私は、やっと言えた。
言った瞬間、胸がずきんと痛む。
透が目を細める。
怒りじゃない。悔しさの色。
「……そうか」
短い返事。
それだけで、私の肩が少し落ちた。
「私、笑ってた」
私は自分に呆れるように言った。
「笑って、幸せですって言って……」
「叶乃」
透が呼ぶ。
その呼び方は、肩書じゃない。
白石夫人じゃない。悪役じゃない。
ただの私。
「今日は帰ろう」
透が言った。
昨日の夜の電話の続きを、今ここで差し出すみたいに。
私は反射で首を振った。
「だめ。ここで帰ったら、余計に噂になる」
透は、少しだけ口角を上げる。
「もう噂になってる。増えるかどうかの話だろ」
その冷静さが、救いだった。
感情で慰めない。
現実を切り分けて、私を立たせてくれる。
「……私、悪役なんだって」
私は呟いた。
言葉にした途端、胸の奥が疼く。
透は、声を荒らげない。
ただ、私の少し前に立つ。
壁と私の間に入るみたいに。
「叶乃を悪役にする物語なら、俺はその物語に出ない」
その言葉は、静かで強かった。
私は息を止めた。
「透……」
声が震える。
透は、視線を逸らさずに言う。
「帰る。俺が送る」
「でも……」
「手は取らない。距離も守る。変な物語を作らせない」
淡々と言うのに、優しさの密度が高い。
私は、唇を噛んだ。
泣きたくなった。
でも、泣いたらここで崩れる。
透が、少しだけ声を落とす。
「……叶乃、息が浅い」
その指摘が、恥ずかしいほど正確だった。
私は気づいてしまう。
さっきから、ずっと呼吸が浅い。
花の香りが、肺を塞いでいたみたいに。
私はゆっくり息を吸い、吐いた。
やっと空気が入ってくる。
「……帰る」
私は言った。
たった一言なのに、涙が出そうになる。
透が頷く。
頷いて、私に一歩分の距離を残したまま、歩き出す。
「九条夫人には?」
私が聞くと、透は肩をすくめた。
「挨拶は俺がする。叶乃は“具合が悪い”でいい」
「具合が悪いって言ったら、余計に——」
「余計に噂になる」
透が私の言葉を引き取って、続けた。
「でも、叶乃が倒れるよりマシだ」
その現実的な言い方が、私にはありがたかった。
誰も私の“限界”を、こんなふうに肯定してくれないから。
廊下の先、サロンの扉が見える。
花の香りが、また濃くなる。
私は一瞬足が止まりそうになった。
透が振り返らずに言った。
「叶乃。笑うのは、家ででいい」
私は頷いた。
頷いた瞬間、胸が痛くて、でも少しだけ軽くなった。
——噂は花の香りみたいに広がっていく。
目に見えないのに、確実に染みついてくる。
だけど今は、その香りから一歩だけ離れられる。
透の背中が、静かに私を外へ導く。
そして私はまだ知らない。
今夜、この“退席”が、
社交界の物語をさらに強くすることを。
——そして、夫の沈黙を決定的にすることを
照明は柔らかく、花は瑞々しく、ティーカップは白磁のまま静かに光る。
——すべてが“上品”に整っているからこそ、言葉の棘だけが際立つ。
九条夫人の邸宅。
白い階段を上がり、重い扉が開いた瞬間、香りが押し寄せた。
薔薇、すずらん、そして柑橘の甘さ。
噂は、いつもこういう香りの中で生まれる。
「叶乃様、お待ちしておりましたわ」
九条夫人は、まるで女主人というより舞台の演出家のように笑った。
「お招きいただき、ありがとうございます」
私は正しい角度で頭を下げ、微笑む。
その微笑みは、昨日の夜から少しも変わっていない。
変えない。変えられない。
サロンにはすでに十数人の夫人と令嬢が集まっていた。
視線が、ひと斉に私へ向く。
私の髪、私のドレス、私の指輪、そして——指輪の隣にいるべき人の不在。
「まあ……今日もおひとり?」
誰かが囁いた。囁きは、柔らかい布で包まれているようで、実際は鋭い。
「主人は急な打ち合わせが入りまして」
私は軽く首を傾げ、さらりと言った。
“夫の不在を説明する”ことが、いつの間にか私の仕事になっている。
「白石様、本当にお忙しいのねえ」
「でも、最近“急な打ち合わせ”が多いって……」
低い笑い声が混ざる。
笑いは、同意の合図だ。真実でなくても。
私はカップを手に取り、紅茶の表面に映る自分を見た。
よく出来た人形みたいだと思う。
笑う角度まで、練習したみたいに整っている。
「叶乃様、こちらへ」
九条夫人が私を“中心”へ誘導する。
ここで中心に立つのは、私が望んだからではない。
中心に置けば、見世物がよく見えるから。
席に着くと、銀のトレイにマカロンや小さな焼き菓子が並べられた。
甘い香り。
それでも、口の中は苦い。
「今日はね、皆さんにぜひ見ていただきたいお花があるの」
九条夫人が嬉しそうに言った。
「白石家の奥様に相応しい、淡い色の……ねえ叶乃様、こういう色、お好きでしょう?」
花瓶の中の淡い花。
白に近いピンク。傷つきやすそうな色。
私は頷く。
「ええ、とても」
それは嘘ではない。
だけど、彼女たちが見たいのは私の“好み”じゃない。
「白石様の“好み”も、そうだったのかしら」
誰かがぽつりと落とした。
——その瞬間、場が静かになる。
私は、カップを置いた。
置く動作だけは丁寧に。音を立てないように。
音が立つと、“動揺”に変換される。
「……白石は、そういうことを話す人ではありませんわ」
私は微笑む。
微笑んで、逃げる。
九条夫人が扇子を揺らし、柔らかく笑った。
「まあ。だからこそ、皆が気になるのよね」
彼女は言った。
“皆”という言葉は便利だ。自分の悪意を薄めてくれる。
「叶乃様、最近お顔が少しお疲れじゃない?」
別の夫人が心配そうな顔を作る。
心配の顔は、たいてい刃物だ。
「そんなこと……」
私は否定しかけて、やめた。
否定は長引く。長引けば、材料になる。
「大丈夫です。よく眠れています」
私は、もっともらしい嘘を添えた。
すると九条夫人が、待っていたように言う。
「眠れるって、素晴らしいわ。だって——最近、あの方の噂が出ているでしょう?」
“あの方”。
名を言わない。名を言わないことで、期待を煽る。
周りの令嬢たちが、目を輝かせる。
まるで、箱の蓋が開くのを待っているみたいに。
「……あの方?」
私が知らないふりをすると、九条夫人は楽しそうに首を傾げた。
「叶乃様ったら。知らないふりはお上手ね」
上手。
そう、私は上手になった。
悪役は、泣かないための技術を身につける。
「一ノ瀬絵里紗様よ」
若い令嬢が、はっきりと口にした。
——名前が出た瞬間、空気が甘く変わった。
花の香りが、急に濃く感じる。
噂が香りみたい、と言ったのは誰だったか。
香りは目に見えないのに、確実に肺の中へ入ってくる。
「久しぶりにお戻りになったそうね」
「ほら、海外にいらしたでしょう?」
「お綺麗だったわぁ……あの方、守ってあげたくなるのよね」
守ってあげたくなる。
その言葉は、私を刺す。
私は守られる側じゃない。
私は守られると“奪った”に見えるから。
「白石様、会っているって……」
囁きが落ちる。
落ちた途端に、周囲がそれを拾って繋げ始める。
「目撃した方がいるって」
「車寄せで、ほら……黒い車」
「会員制ラウンジで、二人きりだったとか」
目撃談は、証拠じゃない。
でも社交界にとって、目撃談は“物語の骨格”だ。
骨格ができれば、肉は勝手につく。
私は笑っていた。
頬が固い。
笑顔が、石膏みたいに固まっていく。
「……そうなのですか」
口が勝手に動いた。
声は、ちゃんと出ている。
でも遠い。自分の声じゃないみたい。
「叶乃様、ねえ」
九条夫人が、同情の顔をつくる。
その同情の下に、好奇心が見える。
「あなた、最初から“悪役”って呼ばれていたでしょう?」
突然、核心を刺してくる。
上品な場で、あえて下品な真実を言う快感が、彼女の目にあった。
私は息を吸った。
鼻の奥に花の香り。
吐く息が、少しだけ震える。
「……皆さまは、そう言いたいのね」
私は微笑む。
微笑みながら、胸の奥を冷たくする。
「だって」
令嬢が無邪気に笑う。
「白石様の初恋は絵里紗様で、奥様は途中から入ってきた……じゃない? だから……」
“奪った”。
その言葉は言わない。
でも、全員の頭の中で同じ字幕が浮かんでいる。
私は、カップの取っ手を握った。
指先に力が入る。
割れないように、力を調整する。
心も同じだ。割れないように力を調整し続けている。
「……私の結婚は、家同士のご縁です」
私は淡々と告げた。
「誰かから奪ったものではありません」
「まあ、正論」
九条夫人は嬉しそうに笑った。
正論が出たら勝ち、と思っている。
正論は、痛みを無視できるから。
「でもねえ叶乃様」
九条夫人が扇子を閉じ、声を少し低くする。
「正論だけじゃ、幸せになれないのよ」
——言わないで。
私は胸の奥で叫ぶ。
でも声は出ない。出したら負ける。
悪役は、ここで感情を出してはいけない。
「幸せですわ」
私は言った。
嘘だと思われないように、少しだけ笑みを足す。
「主人は、私を大切にしてくれています」
その瞬間、誰かが小さく笑った。
笑いの中に、ひっかかりが混ざっている。
「大切、ねえ」
「でも、帰りが遅いのは……」
「会っているなら……」
言葉は、花びらみたいに落ちていく。
花びらは綺麗だ。
でも、積もると息ができなくなる。
私は立ち上がった。
唐突に見えないように、自然なタイミングを装う。
「申し訳ありません、少しお手洗いへ」
九条夫人が笑って頷く。
「どうぞどうぞ。ゆっくりね」
“ゆっくり”の中に、逃がさないという響きがある。
廊下へ出ると、香りが薄くなった。
代わりに、冷えた空気が肺に入ってくる。
私は壁際で一度立ち止まり、指先でこめかみを押さえた。
——泣くな。
泣いたら、全部持っていかれる。
「叶乃」
背後から呼ばれた。
振り向くと、透が立っていた。
どうしてここに、と思うより先に、胸の奥がほどけそうになる。
「透……?」
私は声を整えようとして失敗した。
透は一歩近づき、私の顔を見た。
その視線は、噂の視線と違う。
見世物を見る目じゃない。生きている人を見る目。
「ここ、来てたのか」
「……来てたわ」
「……顔」
透はそれ以上言わない。言わなくても、伝わるから。
私は笑おうとした。
でも、笑えない。
笑いが、喉の奥で引っかかった。
「大丈夫」
私が言うと、透が小さく首を振った。
「大丈夫じゃない時に、その言い方する」
淡々とした声。責めない。
ただ、真実だけを置く。
私は視線を落とした。
床のカーペットが、静かに模様を描いている。
上品な柄。上品な地獄。
「……絵里紗の名前が出た」
私は、やっと言えた。
言った瞬間、胸がずきんと痛む。
透が目を細める。
怒りじゃない。悔しさの色。
「……そうか」
短い返事。
それだけで、私の肩が少し落ちた。
「私、笑ってた」
私は自分に呆れるように言った。
「笑って、幸せですって言って……」
「叶乃」
透が呼ぶ。
その呼び方は、肩書じゃない。
白石夫人じゃない。悪役じゃない。
ただの私。
「今日は帰ろう」
透が言った。
昨日の夜の電話の続きを、今ここで差し出すみたいに。
私は反射で首を振った。
「だめ。ここで帰ったら、余計に噂になる」
透は、少しだけ口角を上げる。
「もう噂になってる。増えるかどうかの話だろ」
その冷静さが、救いだった。
感情で慰めない。
現実を切り分けて、私を立たせてくれる。
「……私、悪役なんだって」
私は呟いた。
言葉にした途端、胸の奥が疼く。
透は、声を荒らげない。
ただ、私の少し前に立つ。
壁と私の間に入るみたいに。
「叶乃を悪役にする物語なら、俺はその物語に出ない」
その言葉は、静かで強かった。
私は息を止めた。
「透……」
声が震える。
透は、視線を逸らさずに言う。
「帰る。俺が送る」
「でも……」
「手は取らない。距離も守る。変な物語を作らせない」
淡々と言うのに、優しさの密度が高い。
私は、唇を噛んだ。
泣きたくなった。
でも、泣いたらここで崩れる。
透が、少しだけ声を落とす。
「……叶乃、息が浅い」
その指摘が、恥ずかしいほど正確だった。
私は気づいてしまう。
さっきから、ずっと呼吸が浅い。
花の香りが、肺を塞いでいたみたいに。
私はゆっくり息を吸い、吐いた。
やっと空気が入ってくる。
「……帰る」
私は言った。
たった一言なのに、涙が出そうになる。
透が頷く。
頷いて、私に一歩分の距離を残したまま、歩き出す。
「九条夫人には?」
私が聞くと、透は肩をすくめた。
「挨拶は俺がする。叶乃は“具合が悪い”でいい」
「具合が悪いって言ったら、余計に——」
「余計に噂になる」
透が私の言葉を引き取って、続けた。
「でも、叶乃が倒れるよりマシだ」
その現実的な言い方が、私にはありがたかった。
誰も私の“限界”を、こんなふうに肯定してくれないから。
廊下の先、サロンの扉が見える。
花の香りが、また濃くなる。
私は一瞬足が止まりそうになった。
透が振り返らずに言った。
「叶乃。笑うのは、家ででいい」
私は頷いた。
頷いた瞬間、胸が痛くて、でも少しだけ軽くなった。
——噂は花の香りみたいに広がっていく。
目に見えないのに、確実に染みついてくる。
だけど今は、その香りから一歩だけ離れられる。
透の背中が、静かに私を外へ導く。
そして私はまだ知らない。
今夜、この“退席”が、
社交界の物語をさらに強くすることを。
——そして、夫の沈黙を決定的にすることを

