優しさの行き先

 玄関の時計が、二十一時を少し回ったところで短く鳴った。
 家の中は静かだ。広い廊下の先、間接照明が床に落ちて、夜が“整っている”。

 ——整いすぎて、息が詰まる。

 私はキッチンのカウンターに手を置き、指先で陶器の縁をなぞった。
 温め直したスープの湯気が、白い息みたいに消えていく。
 温度はあるのに、心には届かない。

 テーブルの上には、ふたり分のカトラリー。
 片方は、最初から使われない前提で並べられているように見える。

「奥様、もう一度温め直しますか?」
 控えめな声が背後からした。
 白石家のハウスキーパー——**深山(みやま)**が、手元のトレーを抱えたまま立っている。

「いいわ。私の分だけにして」
 声が柔らかく聞こえるように、丁寧に笑った。
 笑う癖は、いつの間にか身についた。

「……旦那様からは、何か連絡は?」
 深山が聞いた。
 恐る恐る、というより——“気を遣う形”を体に覚えた人の言い方。

 私は首を横に振る。

「まだ。たぶん遅いのね」
 “たぶん”という言葉が、妙に空虚だった。

 深山は一瞬迷い、静かに言った。

「今日は……三日続けての遅いお帰りになりますね」
 事実だけ。
 それなのに、胸がきゅっと縮む。

 三日。
 たった三日。
 でも、こういう“たった”が積み重なると、人は耐えられなくなる。

「お忙しい時期なのよ」
 私は自分に言い聞かせるように言い、椅子へ腰を下ろした。
 椅子の背が、やけに硬い。

 深山は頷いて、無理に続きを言わない。
 その沈黙が、家の中に溜まっていく。
 まるで、換気できない空気みたいに。

「奥様、こちら……」
 深山が差し出したのは、薄い封筒だった。
 白石家の紋も、差出人もない。社内便のような無機質な封。
 けれど、手に取った瞬間、胸の奥が先に理解する。

 ——恒一からだ。

 私は封を切る。
 中には短いメモ。

『遅くなる。先に休んでいてくれ。——恒一』

 たった一行。
 丁寧でも乱暴でもない。
 ただ、“事務連絡”の温度。

 私は笑った。
 喉の奥が痛い。

「……ね」
 深山が気まずそうに視線を落とす。
「旦那様らしい、お言葉でございます」

 “らしい”。
 それは、免罪符みたいに使われる言葉だ。
 らしいから仕方ない、らしいから許して、らしいから我慢して。

「ええ。そうね」
 私はメモを畳んだ。
 指先が、ほんの少しだけ震えた。
 深山に見られないように、ゆっくり深呼吸する。

 ——私は、泣かない。
 泣けば、負ける。
 この家で負けたら、社交界で“悪役”が崩れたと笑われる。

「……奥様、今夜はお部屋でお召し上がりになりますか?」
「いいえ。ここで食べるわ。いつも通り」
 “いつも通り”が、どれだけ苦い言葉か。
 それでも私は、口にした。

 深山が静かに立ち去り、食卓にスープだけが置かれた。
 私はスプーンを持ち上げる。
 口に運ぶ。
 味はする。なのに、満たされない。

 その時——
 スマートフォンが振動した。

 画面に表示された名前に、私の心臓が一度だけ跳ねる。

 透

 私はすぐに出られなくて、二回目の振動でようやく指を滑らせた。

「……もしもし」
 声が平静に戻るまで、一拍遅れる。

『叶乃?』
 透の声は落ち着いていた。
 余計な心配を混ぜないのが、彼の優しさだ。

「どうしたの」
『どうしたのは、こっちだよ』
 透が息を吐く気配。
『今日、サロンの招待状、来てたろ。行くって聞いた。……ちゃんと帰れた?』

 私は、スープの表面を見つめた。
 灯りが揺れて、黄金色が歪む。

「帰れたわ。大丈夫」
『“大丈夫”は、信用できない』
 透が即答する。
 責める声じゃない。
 ただ、私の言い訳を潰す声。

 私は笑って誤魔化した。

「透、意地悪」
『意地悪でもいい。叶乃が崩れる方が嫌だ』
 その言葉に、胸の奥が熱くなる。
 熱くなって、苦しくなる。

「……崩れてない」
『崩れてる自覚がないのが、一番危ない』
 透は、やさしくないことを言う。
 でもそれは、私を生かすためのやさしくなさだ。

「ねえ、透」
 私は自分でも驚くほど小さな声で言った。
「恒一、最近……遅いの」

 言ってしまった。
 言葉にした瞬間、胸の奥から何かが溢れそうになる。

 透は少しだけ黙った。
 そして、静かに聞き返す。

『連絡は?』
「メモだけ。“遅くなる。先に休め”って」
『……それだけ?』
「それだけ」

 透の沈黙が、電話越しに伝わってくる。
 怒りでも同情でもない。
 “どう支えるべきか”を選んでいる沈黙。

『叶乃。……今、家?』
「そうよ」
『会える?』
 短い問い。
 私はスプーンを置き、指先を膝の上で握りしめた。

「……今夜?」
『今夜。五分だけでもいい』
 五分。
 五分で何が変わるの、と言いたくなる。
 でも、変わるのだ。
 人は、たった五分の“味方”で立っていられる。

「……わかった」
『外に出なくていい。玄関まででいい。風邪ひくから』
 その言い方が、透らしい。
 叶乃を引っ張り出すのではなく、叶乃の安全圏を尊重する。

「透……」
 名前を呼ぶと、胸が詰まった。
 透は、そこで話を切る。

『じゃあ、すぐ』
 通話が切れた。

 私はしばらく、スマホを握ったまま動けなかった。
 ——誰かが来る。
 たったそれだけのことが、こんなにも心を揺らす。

 玄関のチャイムが鳴ったのは、十分後だった。
 深山が出ようとしたが、私は首を振った。

「私が出る」
 深山が少し驚く。
 私が自分から玄関へ行くのは、珍しいのだろう。

 扉を開けると、そこに透が立っていた。
 夜の冷気を纏って、黒いコートをきちんと着ている。
 派手じゃないのに、安心する存在感。

「……寒くない?」
 私の第一声がそれだったことに、自分で笑いそうになった。

「叶乃が薄着で出てくると思った」
 透が、苦笑に近い顔で言う。
 私は肩をすくめる。

「私は、奥様だから」
「奥様は、寒くならないのか?」
 透が、真顔で言う。
 冗談みたいなのに、胸に刺さる。

 私は目を逸らした。
 白い玄関灯の下で、床の影がやけに濃い。

「……どうしたの、本当に」
 私が聞くと、透は視線を落としたまま言った。

「今日のサロン、噂が……回ってた」
 言葉を選んでいるのがわかった。
 “回ってた”の中身を、私はもう知っている。

「知ってる」
 私は笑った。
 笑ったつもりだった。

 透の眉が、わずかに寄る。
 彼は、私の笑みの“質”を見抜く。

「叶乃」
 名前だけで、心が揺れる。
「……恒一、最近遅いんだろ」

 私は頷く。
 頷いただけで、喉が痛む。

「“仕事”だって」
 私が言うと、透はふっと息を吐いた。

「……一番、反論しづらい言葉だな」
 その言い方が、妙に現実的で、私は少しだけ救われた。
 大げさに慰められない。
 同情されない。
 ただ、状況を“言語化”されると、心が少し整う。

「私、疑うのが嫌なの」
 私は言った。
 玄関の奥、家の中の静けさが背中を押してくる。
「疑ったら、私が悪役みたいになるでしょう?」

 透が、真っ直ぐ私を見る。

「叶乃。もう“悪役”にされてる」
 その言葉に、胸の奥がぎゅっと掴まれた。

 私は反射で笑おうとして、できなかった。
 代わりに、息が震える。

「……だから、笑ってるの」
 私は呟いた。
「笑ってたら、悪役でも“負けてない”みたいに見えるから」

 透は、すぐに否定しない。
 私の言葉を踏み潰さない。
 それが、彼の寄り添い方だ。

 数秒の沈黙のあと、透が言った。

「叶乃が、負けてないふりをする必要なんてない」
 低い声。
 押しつけじゃない。
 でも——優しさは、ときどき痛い。

「……じゃあ、どうすればいいの」
 私は、問いかけてしまった。
 答えなんて出せないのに。

 透は、扉の外の暗さを一度見てから、私へ戻る。

「今夜は、寝ろ」
「子どもみたい」
「子どもみたいに、守られていい日もある」
 透が言う。
 それが、私の涙腺を正確に叩いた。

 私は唇を噛んだ。
 泣くな、泣くな、と自分に言いながら。

 透が、少しだけ声を落とす。

「……で。恒一は、今どこだ」
 その問いに、私は答えられなかった。
 答えがないのだ。
 彼がどこで、誰と、何をしているのか。
 私は妻なのに、知らない。

 沈黙が落ちる。
 透は、そこで“追及”をやめる。

「……わかった。じゃあ、今日はこれだけ」
 透が、コートのポケットから小さな紙袋を出した。
 温かい匂いがする。
 スープではない。甘い、焼き菓子の匂い。

「何それ」
「叶乃が好きな店。通り道だった」
 通り道。
 そんな偶然の形をした、気遣い。

「透……」
 私は紙袋を受け取った瞬間、指先が熱くなった。
 たったそれだけで、泣きそうになる自分が情けない。

 透が、玄関の敷居から一歩も入らないまま言った。

「俺は、家の中には入らない」
「どうして」
「叶乃が、後で余計に苦しくなる」
 私の“後で”を考えてくれる人。

 透は軽く口角を上げる。

「——だから、ここまで」
 それから、少しだけ真剣な顔になる。

「叶乃。もし“今日は無理”って日が来たら、俺に言え」
「……無理って?」
「笑うのが、無理」
 透が、まっすぐ言った。

 私は返事ができなかった。
 胸の奥で、何かがほどけそうで、怖かった。

 透は私の沈黙を肯定したまま、言葉を続けない。
 ただ一つだけ、最後に言った。

「恒一を悪者にしなくていい。でも——叶乃を悪者にするな」

 そう言って、透は踵を返した。
 夜の冷気が、彼の背中を包む。

 扉を閉めた瞬間、家の静けさが戻ってくる。
 でもさっきまでとは違う静けさだった。
 “ひとり”の静けさではなく、
 “味方がいる”ことを知ってしまった静けさ。

 私は紙袋を胸に抱え、深く息を吸った。
 甘い匂いが、少しだけ心をほどいた。

 そのとき。
 玄関ホールの壁時計が、二十二時を告げた。

 ——恒一は、まだ帰らない。

 私は笑おうとして、やめた。
 代わりに、そっと目を閉じる。

 泣く権利なんてない。
 そう思っていたはずなのに、
 透の言葉だけが、何度も耳に残った。

 「叶乃を悪者にするな」