白石グループの会員制ラウンジを出た瞬間、私は空気が少しだけ軽くなるのを感じた。
重かったのは空気じゃない。
——私の胸だった。
廊下の絨毯は柔らかい。
それが、今日の私の足元には不釣り合いに感じる。
柔らかいものを踏むのが怖い。
まだ自分が硬くなっていて、壊してしまいそうで。
エレベーターの扉が閉まる。
鏡面に映った私は、相変わらず綺麗に整っていた。
髪も、口紅も、表情も。
——“悪役”の鎧。
なのに、目だけが少し赤い。
泣かなかったはずなのに。
心は泣いていたのだと思う。
「全部話す」
恒一の言葉が、まだ耳に残っている。
全部。
それは約束であり、同時に猶予だ。
私はまだ決めきれていない。
許すのか、離れるのか。
でもひとつだけ確かなのは、私はもう“沈黙の中の妻”には戻れないということ。
スマートフォンが震えた。
透。
『終わった?』
私は短く打った。
『終わった。まだ息してる』
送信してすぐ、透から返事が来る。
『偉い。今夜、飯。静かな店』
——偉い。
そんな言葉が、不意に胸の奥を温めた。
褒められたわけじゃない。
ただ、“生きてること”を肯定された感じがした。
私は返信しようとして、指が止まる。
今夜……会ったら、また噂になる。
でも今は、噂より呼吸が大事だ。
『行く』
送信した瞬間、肩の力が少し抜けた。
その抜け方が怖い。
鎧が緩むと、私は泣いてしまうから。
——そのとき。
背後から低い声がした。
「叶乃」
振り返ると、恒一が立っていた。
会議室の空気を纏ったまま。
けれどさっきより、目が落ち着かない。
「送る」
恒一が言う。
命令のようで、命令じゃない言い方。
“焦り”が混ざっている。
私は首を横に振った。
「大丈夫……じゃない。自分で帰る」
言い直すのが、少しだけ上手くなった。
恒一の眉が僅かに動く。
「どこへ」
質問が出た。
それだけで驚く。
今までの恒一は、私の行き先に興味を持たなかったから。
私は答えない。
答えたら、また“管理”が始まる。
「それは、言わない」
私の声は、意外なほど落ち着いていた。
恒一が口を閉じる。
その沈黙は、昔の沈黙とは違う。
“言い返したいのに、抑えている”沈黙。
私はその沈黙を待たない。
私が待つのは、もうやめた。
「恒一」
私は名前を呼んだ。
呼ぶだけで胸が痛いのは、まだ好きだからだろうか。
それとも、夫婦という鎖の痛みだろうか。
「さっき言ったこと、忘れないで」
私は言う。
「“全部話す”って」
恒一が頷く。
「ああ」
短い。
でも、今日は逃げない短さ。
私は一歩下がった。
距離を作る。
この距離がないと、私はまた仮面を被ってしまう。
「じゃあ、今度は私の番ね」
私は、息を吸って言った。
言い切るために。
「私は——私のことを話す」
恒一がわずかに目を見開く。
彼は、私が話すと思っていなかった。
私がいつも“飲み込む側”だったから。
「……聞く」
恒一が言った。
たった二文字。
でもそれが、夫婦の会話の入口になる。
私は視線を落とさずに言った。
「私ね、ずっと“悪役”でいる方が楽だった」
恒一の眉が動く。
「楽?」
「うん。悪役なら、泣いてはいけない。怒ってはいけない。期待してはいけない」
私は淡々と続けた。
「期待しなければ、裏切られないから」
胸が痛い。
言葉にすると、現実がはっきりする。
「私はあなたが遅くても笑ってた。噂を聞いても笑ってた。
“因果応報”って乾杯されても、笑ってグラスを上げた」
声が少しだけ震える。
でも、止めない。
「ねえ恒一。あれ、強いんじゃない」
私は静かに言った。
「壊れないように固めてただけ」
恒一が、初めて息を詰めた。
その反応が、私の胸を少しだけ揺らす。
私は続ける。
「私はあなたに愛されたいって言ったことがない」
言うと、胸が裂ける。
でも、言う。
「言えなかった。
言った瞬間、あなたが“仕事”って言って終わらせる気がして」
私は苦く笑う。
「私、あなたに否定されるのが怖かったの」
恒一の手が、僅かに握られる。
拳が、緊張で硬い。
「叶乃……」
恒一が呼ぶ。
その呼び方が、今日は少しだけ人間っぽい。
私は首を横に振った。
「まだ終わってない」
言い切って、自分で驚く。
私、こういう言い方ができるんだ。
私は、ゆっくり言う。
「私はね、“あなたの優しさ”が欲しかった」
欲しい。
言葉にした瞬間、涙が目の奥に浮かぶ。
「必要なことじゃない優しさ。
体裁のためじゃない優しさ。
夫婦だからっていう義務じゃない優しさ」
私はひと呼吸置いて、はっきり言った。
「回廊で、絵里紗さんに外套を掛けたあなたの優しさ。
あれが、私には一度もなかった」
恒一の表情が、崩れそうになる。
でも、崩れきれない。
崩れきれないのが、彼の限界だ。
私はその限界に、もう合わせない。
「だから私、決めたの」
私は言う。
声が小さいのに、揺れない。
「もう“悪役”でいない」
恒一が息を吸う。
「……どうする」
質問が出た。
また驚く。
今まで質問はなかった。結論だけだった。
私は微笑んだ。
でもそれは、社交界の笑顔じゃない。
自分を守るための、薄い笑みだ。
「まず、帰る場所を変える」
「……家に戻らないのか」
恒一の声が硬くなる。
「戻らない。今は」
私は即答した。
「戻ったら、また仮面を被る。
あなたが“全部話す”前に、私はまた飲み込んでしまう」
恒一が何か言いかけて、止めた。
止めたのは、今日の彼の成長かもしれない。
でも、私はそれを“希望”にしない。
希望は、私を壊す。
「叶乃、待て」
恒一が言った。
珍しく、私を止める言葉。
「待たない」
私は言い切った。
胸が震える。
でも、これが私の第一歩だ。
「私は待って、壊れた」
私は続けた。
「だから、もう待たない」
恒一の目が揺れた。
焦り。
失う恐怖。
それは愛ではないかもしれない。
でも、私を繋ぎ止める理由にはならない。
私はバッグを持ち直し、ゆっくり言った。
「あなたが本当に夫婦を続けたいなら」
言葉が真っ直ぐになる。
「“誤解だ”って言うんじゃなくて、
私が信じられるだけの事実と、言葉と、態度で見せて」
恒一は、苦しそうに息を吐いた。
「……分かった」
その“分かった”が、今までで一番重かった。
私は頷いた。
頷いて、最後に言う。
これが、仮面を外す宣言になる。
「それまで私は、私を守る」
声は小さい。
でも、はっきり。
「悪役の仮面を外して、叶乃として生きる」
恒一の視線が、私を追う。
追いながら、初めて口にした。
「……叶乃。俺は」
言いかけた言葉は、続かなかった。
彼の言葉は、いつも少し遅い。
私は足を止めずに言った。
振り返らずに。
「遅いの」
責める声じゃない。
ただの事実として。
そして、廊下の角を曲がる直前に、私は一度だけ振り返った。
——自分で振り返った。
誰かに引き戻されたんじゃない。
「恒一」
私は言う。
「私、あなたのことが嫌いになったわけじゃない」
胸が痛い。
でも言う。
「だからこそ、ちゃんとして」
言い終えた瞬間、私はもう一度前を向いた。
涙は落ちない。
落ちないのは強がりじゃない。
泣く前に、自分を抱きしめると決めたからだ。
スマートフォンが震える。
透からだ。
『どこいる。迎え行く』
私は短く返した。
『ひとりで歩ける。あとで会う』
送信して、私は息をした。
深く。
肺の奥まで。
——悪役の仮面は、もういらない。
私は私の物語を、私の声で進める。
重かったのは空気じゃない。
——私の胸だった。
廊下の絨毯は柔らかい。
それが、今日の私の足元には不釣り合いに感じる。
柔らかいものを踏むのが怖い。
まだ自分が硬くなっていて、壊してしまいそうで。
エレベーターの扉が閉まる。
鏡面に映った私は、相変わらず綺麗に整っていた。
髪も、口紅も、表情も。
——“悪役”の鎧。
なのに、目だけが少し赤い。
泣かなかったはずなのに。
心は泣いていたのだと思う。
「全部話す」
恒一の言葉が、まだ耳に残っている。
全部。
それは約束であり、同時に猶予だ。
私はまだ決めきれていない。
許すのか、離れるのか。
でもひとつだけ確かなのは、私はもう“沈黙の中の妻”には戻れないということ。
スマートフォンが震えた。
透。
『終わった?』
私は短く打った。
『終わった。まだ息してる』
送信してすぐ、透から返事が来る。
『偉い。今夜、飯。静かな店』
——偉い。
そんな言葉が、不意に胸の奥を温めた。
褒められたわけじゃない。
ただ、“生きてること”を肯定された感じがした。
私は返信しようとして、指が止まる。
今夜……会ったら、また噂になる。
でも今は、噂より呼吸が大事だ。
『行く』
送信した瞬間、肩の力が少し抜けた。
その抜け方が怖い。
鎧が緩むと、私は泣いてしまうから。
——そのとき。
背後から低い声がした。
「叶乃」
振り返ると、恒一が立っていた。
会議室の空気を纏ったまま。
けれどさっきより、目が落ち着かない。
「送る」
恒一が言う。
命令のようで、命令じゃない言い方。
“焦り”が混ざっている。
私は首を横に振った。
「大丈夫……じゃない。自分で帰る」
言い直すのが、少しだけ上手くなった。
恒一の眉が僅かに動く。
「どこへ」
質問が出た。
それだけで驚く。
今までの恒一は、私の行き先に興味を持たなかったから。
私は答えない。
答えたら、また“管理”が始まる。
「それは、言わない」
私の声は、意外なほど落ち着いていた。
恒一が口を閉じる。
その沈黙は、昔の沈黙とは違う。
“言い返したいのに、抑えている”沈黙。
私はその沈黙を待たない。
私が待つのは、もうやめた。
「恒一」
私は名前を呼んだ。
呼ぶだけで胸が痛いのは、まだ好きだからだろうか。
それとも、夫婦という鎖の痛みだろうか。
「さっき言ったこと、忘れないで」
私は言う。
「“全部話す”って」
恒一が頷く。
「ああ」
短い。
でも、今日は逃げない短さ。
私は一歩下がった。
距離を作る。
この距離がないと、私はまた仮面を被ってしまう。
「じゃあ、今度は私の番ね」
私は、息を吸って言った。
言い切るために。
「私は——私のことを話す」
恒一がわずかに目を見開く。
彼は、私が話すと思っていなかった。
私がいつも“飲み込む側”だったから。
「……聞く」
恒一が言った。
たった二文字。
でもそれが、夫婦の会話の入口になる。
私は視線を落とさずに言った。
「私ね、ずっと“悪役”でいる方が楽だった」
恒一の眉が動く。
「楽?」
「うん。悪役なら、泣いてはいけない。怒ってはいけない。期待してはいけない」
私は淡々と続けた。
「期待しなければ、裏切られないから」
胸が痛い。
言葉にすると、現実がはっきりする。
「私はあなたが遅くても笑ってた。噂を聞いても笑ってた。
“因果応報”って乾杯されても、笑ってグラスを上げた」
声が少しだけ震える。
でも、止めない。
「ねえ恒一。あれ、強いんじゃない」
私は静かに言った。
「壊れないように固めてただけ」
恒一が、初めて息を詰めた。
その反応が、私の胸を少しだけ揺らす。
私は続ける。
「私はあなたに愛されたいって言ったことがない」
言うと、胸が裂ける。
でも、言う。
「言えなかった。
言った瞬間、あなたが“仕事”って言って終わらせる気がして」
私は苦く笑う。
「私、あなたに否定されるのが怖かったの」
恒一の手が、僅かに握られる。
拳が、緊張で硬い。
「叶乃……」
恒一が呼ぶ。
その呼び方が、今日は少しだけ人間っぽい。
私は首を横に振った。
「まだ終わってない」
言い切って、自分で驚く。
私、こういう言い方ができるんだ。
私は、ゆっくり言う。
「私はね、“あなたの優しさ”が欲しかった」
欲しい。
言葉にした瞬間、涙が目の奥に浮かぶ。
「必要なことじゃない優しさ。
体裁のためじゃない優しさ。
夫婦だからっていう義務じゃない優しさ」
私はひと呼吸置いて、はっきり言った。
「回廊で、絵里紗さんに外套を掛けたあなたの優しさ。
あれが、私には一度もなかった」
恒一の表情が、崩れそうになる。
でも、崩れきれない。
崩れきれないのが、彼の限界だ。
私はその限界に、もう合わせない。
「だから私、決めたの」
私は言う。
声が小さいのに、揺れない。
「もう“悪役”でいない」
恒一が息を吸う。
「……どうする」
質問が出た。
また驚く。
今まで質問はなかった。結論だけだった。
私は微笑んだ。
でもそれは、社交界の笑顔じゃない。
自分を守るための、薄い笑みだ。
「まず、帰る場所を変える」
「……家に戻らないのか」
恒一の声が硬くなる。
「戻らない。今は」
私は即答した。
「戻ったら、また仮面を被る。
あなたが“全部話す”前に、私はまた飲み込んでしまう」
恒一が何か言いかけて、止めた。
止めたのは、今日の彼の成長かもしれない。
でも、私はそれを“希望”にしない。
希望は、私を壊す。
「叶乃、待て」
恒一が言った。
珍しく、私を止める言葉。
「待たない」
私は言い切った。
胸が震える。
でも、これが私の第一歩だ。
「私は待って、壊れた」
私は続けた。
「だから、もう待たない」
恒一の目が揺れた。
焦り。
失う恐怖。
それは愛ではないかもしれない。
でも、私を繋ぎ止める理由にはならない。
私はバッグを持ち直し、ゆっくり言った。
「あなたが本当に夫婦を続けたいなら」
言葉が真っ直ぐになる。
「“誤解だ”って言うんじゃなくて、
私が信じられるだけの事実と、言葉と、態度で見せて」
恒一は、苦しそうに息を吐いた。
「……分かった」
その“分かった”が、今までで一番重かった。
私は頷いた。
頷いて、最後に言う。
これが、仮面を外す宣言になる。
「それまで私は、私を守る」
声は小さい。
でも、はっきり。
「悪役の仮面を外して、叶乃として生きる」
恒一の視線が、私を追う。
追いながら、初めて口にした。
「……叶乃。俺は」
言いかけた言葉は、続かなかった。
彼の言葉は、いつも少し遅い。
私は足を止めずに言った。
振り返らずに。
「遅いの」
責める声じゃない。
ただの事実として。
そして、廊下の角を曲がる直前に、私は一度だけ振り返った。
——自分で振り返った。
誰かに引き戻されたんじゃない。
「恒一」
私は言う。
「私、あなたのことが嫌いになったわけじゃない」
胸が痛い。
でも言う。
「だからこそ、ちゃんとして」
言い終えた瞬間、私はもう一度前を向いた。
涙は落ちない。
落ちないのは強がりじゃない。
泣く前に、自分を抱きしめると決めたからだ。
スマートフォンが震える。
透からだ。
『どこいる。迎え行く』
私は短く返した。
『ひとりで歩ける。あとで会う』
送信して、私は息をした。
深く。
肺の奥まで。
——悪役の仮面は、もういらない。
私は私の物語を、私の声で進める。

