翌日。
約束の“明日”は、思っていたより早く来た。
ホテルの窓から見える空は、昨日より少しだけ青い。
青いのに、胸の奥は重いまま。
私は鏡の前で髪を整え、口紅を引いた。
——戦支度。
今日の私は、泣かない。泣かせない。
ただ、聞く。
そして、決める。
スマートフォンが震える。
『迎えを向かわせる。ロビーに降りろ。——恒一』
命令口調。いつも通り。
でも、昨日の焦りの影がまだ残っている気がした。
私は短く返した。
『自分で行く』
送信してすぐ、既読がつく。
返事はない。
——それでいい。主導権は手放さない。
私はタクシーで、白石グループ本社近くの会員制ラウンジへ向かった。
人目を避けるための場所。
夫婦の話を、夫婦の家ではできないから。
受付で名前を告げ、奥の個室へ案内される。
ガラス越しに見える街は忙しそうで、私の心だけが別の時間を生きている。
部屋には先に恒一が来ていた。
スーツは整っている。髪も整っている。
——昨日の“乱れ”は、もうない。
だからこそ、私は身構えた。
整うと、彼は“白石恒一”になる。
私の夫ではなく、会社の人間になる。
「座れ」
恒一が言った。
「座るわ」
私は自分の椅子を自分で引いて座った。
その“自分で”を、忘れない。
テーブルの上には、ミネラルウォーターが二本。
グラスが二つ。
まるで面談。
夫婦の話ではなく、契約の確認みたいだ。
恒一は、私を見ていない。
私の顔ではなく、私の“状態”を見ている。
体調、機嫌、爆発の危険度。
そういう見方。
「昨日は」
恒一が口を開いた。
「悪かった」
謝罪。
私はその言葉が意外で、心臓が一瞬だけ跳ねた。
でも、すぐに落ち着く。
謝罪だけなら、いくらでも言える。
問題は、その先だ。
「何が悪かったの?」
私は静かに聞いた。
逃げ道を塞ぐ質問。
恒一は少しだけ眉を動かし、言葉を選んだ。
「……不安にさせた」
曖昧。
私は頷かない。
「それだけ?」
恒一の喉が動く。
「……絵里紗の件も」
彼はようやく名前を出した。
その瞬間、胸がじくりと痛む。
でも私は目を逸らさない。
「“件”じゃない」
私は言った。
「人の名前で呼んで」
恒一の表情が僅かに固くなる。
それでも、言った。
「……一ノ瀬絵里紗」
名前が、部屋の空気を変える。
重くなる。冷える。
私は、ゆっくり息を吸って吐いた。
「聞くわ」
私は言った。
「あなたは、絵里紗さんと一緒になりたいの?」
恒一の目が一瞬だけ揺れた。
揺れて、すぐに整う。
その整いが、私は嫌いだ。
感情を隠して、正解だけを置こうとする癖。
「……違う」
恒一は短く言った。
「違うなら、説明して」
私は即座に返した。
「私はもう、“誤解だ”だけでは終われない」
恒一は、初めて長く息を吐いた。
そして、ようやく——話し始めた。
「絵里紗は、俺の初恋だった」
心臓が痛む。
痛むけれど、私は聞く。
「……でも、付き合ってはいない」
恒一が続ける。
「彼女は、結婚した。海外に行った。……その後、離婚して帰国した」
現実の事情。
陰謀じゃない。
よくある、痛みの連鎖。
「彼女が帰国したのは半年前だ」
「……だから最近遅かったの?」
私は問う。
恒一は頷いた。
「彼女の父親が倒れた。脳梗塞だ」
私は息を止めた。
病気。
それは誰のせいでもない。
責められない現実。
「後遺症が残った。右半身と言語。……介護の手続きが必要になった」
恒一の声が低くなる。
「絵里紗は一人娘だ。頼れる親族がいなかった」
私はグラスの水に目を落とした。
透明な水が、揺れる。
私の中も揺れる。
同情が湧く。
同時に、怒りも湧く。
「……だからあなたが?」
「俺の会社の法務と人事に、相談が来た」
恒一は続ける。
「彼女の父親の会社——下請けだ。倒れたことで契約が止まりかけた。従業員が路頭に迷う」
仕事。
仕事は確かに、重い。
誰かの生活がぶら下がっている。
「俺は、整理した」
恒一が言う。
「融資、契約の継続、後継者の調整、介護サービス、後見……」
彼は淡々と並べる。
淡々と並べながら、目の奥に疲れが滲んでいる。
「……それが“仕事”?」
私は言った。
喉が痛い。
「仕事だ」
恒一が頷く。
「俺が手を引けば、彼女の父親の会社が潰れる可能性がある。……それだけじゃない」
恒一は一拍置いて言った。
「絵里紗が、追い詰められていた」
私は黙った。
追い詰められている人を、責められない。
でも、私は——追い詰められているのに、誰にも気づかれなかった。
「俺は、“善意”で動いた」
恒一が言う。
「余計な噂が出ないように。お前が傷つかないように。だから言わなかった」
——言わなかった。
私はそこで、笑ってしまった。
乾いた笑い。
「それが、あなたの善意?」
私はゆっくり言った。
「私が傷つかないようにって、私から何も聞く権利を奪うの?」
恒一の眉が歪む。
初めて、反論が出ない顔。
私は続けた。
「あなたの善意は、私を守ってない」
言葉が鋭くなる。
止められない。
「あなたの善意は、あなた自身を守るための沈黙よ。
面倒な会話をしないための沈黙。
夫婦の“説明”をしないための沈黙」
恒一の喉が動く。
そして、珍しく言葉が出た。
「……違う。俺は——怖かった」
その言葉に、私は動きが止まった。
「怖かった?」
「お前が、傷つく顔を見るのが」
恒一の声が、少しだけ揺れた。
「絵里紗の名前を出した瞬間、お前が全部を“奪われた”と思うのが分かってた」
——分かってた。
分かってたのに、黙った。
私は、静かに言った。
「分かってたなら、なおさら言うべきだった」
私は目を上げた。
「私、あなたに優しくされた覚えがないって言ったよね」
恒一が一瞬だけ目を伏せる。
「回廊の外套」
私は言う。
「私が見たのは、あなたが“優しくできる人”だって事実」
恒一は、苦しそうに息を吐いた。
「……あれは、咳き込んだから」
言い訳に聞こえる。
私は首を横に振る。
「理由じゃない」
「……」
「あなたの指先が丁寧だった。迷いがなかった。
その優しさは“必要なこと”じゃない。感情よ」
恒一の沈黙が、今度は重い。
でも、逃げの沈黙じゃない。
向き合うための沈黙。
私は、最後に言った。
「あなたの心に絵里紗さんしかいないなら」
声が震える。
でも、言う。
「私は、身を引ける。
……この前も言ったけど、絵里紗さんとお幸せに。
これ、本心だから」
恒一の顔が、初めて明確に揺れた。
焦り。
混乱。
そして——取り落としそうな恐怖。
「……叶乃、それは」
言葉が詰まる。
詰まるのが、今までの彼だった。
でも今日は違う。
彼は詰まりながらも、言葉を掴もうとしている。
「俺は、絵里紗と一緒になりたいわけじゃない」
恒一が言った。
「助けたかった。……過去の自分が救われなかったから」
過去の自分。
その言葉に、私は初めて恒一の“人間”を見た気がした。
完璧な御曹司じゃない、弱い部分。
私は、静かに問う。
「じゃあ、私のことは?」
恒一の目が、ようやく私を見る。
初めて“立場”じゃなく、私を見る。
「……俺は」
恒一の声が掠れる。
「お前が消えるのが怖い」
昨日の“困る”より、少しだけ深い。
でもまだ、足りない。
私はそれを分かっている。
「怖いなら」
私は言った。
「言葉をちょうだい。説明をちょうだい」
息を吸う。
「私を、沈黙で守らないで」
恒一は、長く息を吐いた。
そして、やっと頷いた。
「……分かった。全部話す」
「今まで、なぜ言えなかったのかも?」
「……ああ」
恒一は言った。
「俺の弱さも含めて」
その瞬間、私は初めて——
“誤解”という言葉の向こうに、現実があることを知った。
陰謀じゃない。
ただ、人の弱さと善意が、夫婦を壊していただけ。
そして私は、まだ決めきれていない。
許すのか、離れるのか。
でもひとつだけ、確かだ。
——私はもう、悪役のまま黙らない。
約束の“明日”は、思っていたより早く来た。
ホテルの窓から見える空は、昨日より少しだけ青い。
青いのに、胸の奥は重いまま。
私は鏡の前で髪を整え、口紅を引いた。
——戦支度。
今日の私は、泣かない。泣かせない。
ただ、聞く。
そして、決める。
スマートフォンが震える。
『迎えを向かわせる。ロビーに降りろ。——恒一』
命令口調。いつも通り。
でも、昨日の焦りの影がまだ残っている気がした。
私は短く返した。
『自分で行く』
送信してすぐ、既読がつく。
返事はない。
——それでいい。主導権は手放さない。
私はタクシーで、白石グループ本社近くの会員制ラウンジへ向かった。
人目を避けるための場所。
夫婦の話を、夫婦の家ではできないから。
受付で名前を告げ、奥の個室へ案内される。
ガラス越しに見える街は忙しそうで、私の心だけが別の時間を生きている。
部屋には先に恒一が来ていた。
スーツは整っている。髪も整っている。
——昨日の“乱れ”は、もうない。
だからこそ、私は身構えた。
整うと、彼は“白石恒一”になる。
私の夫ではなく、会社の人間になる。
「座れ」
恒一が言った。
「座るわ」
私は自分の椅子を自分で引いて座った。
その“自分で”を、忘れない。
テーブルの上には、ミネラルウォーターが二本。
グラスが二つ。
まるで面談。
夫婦の話ではなく、契約の確認みたいだ。
恒一は、私を見ていない。
私の顔ではなく、私の“状態”を見ている。
体調、機嫌、爆発の危険度。
そういう見方。
「昨日は」
恒一が口を開いた。
「悪かった」
謝罪。
私はその言葉が意外で、心臓が一瞬だけ跳ねた。
でも、すぐに落ち着く。
謝罪だけなら、いくらでも言える。
問題は、その先だ。
「何が悪かったの?」
私は静かに聞いた。
逃げ道を塞ぐ質問。
恒一は少しだけ眉を動かし、言葉を選んだ。
「……不安にさせた」
曖昧。
私は頷かない。
「それだけ?」
恒一の喉が動く。
「……絵里紗の件も」
彼はようやく名前を出した。
その瞬間、胸がじくりと痛む。
でも私は目を逸らさない。
「“件”じゃない」
私は言った。
「人の名前で呼んで」
恒一の表情が僅かに固くなる。
それでも、言った。
「……一ノ瀬絵里紗」
名前が、部屋の空気を変える。
重くなる。冷える。
私は、ゆっくり息を吸って吐いた。
「聞くわ」
私は言った。
「あなたは、絵里紗さんと一緒になりたいの?」
恒一の目が一瞬だけ揺れた。
揺れて、すぐに整う。
その整いが、私は嫌いだ。
感情を隠して、正解だけを置こうとする癖。
「……違う」
恒一は短く言った。
「違うなら、説明して」
私は即座に返した。
「私はもう、“誤解だ”だけでは終われない」
恒一は、初めて長く息を吐いた。
そして、ようやく——話し始めた。
「絵里紗は、俺の初恋だった」
心臓が痛む。
痛むけれど、私は聞く。
「……でも、付き合ってはいない」
恒一が続ける。
「彼女は、結婚した。海外に行った。……その後、離婚して帰国した」
現実の事情。
陰謀じゃない。
よくある、痛みの連鎖。
「彼女が帰国したのは半年前だ」
「……だから最近遅かったの?」
私は問う。
恒一は頷いた。
「彼女の父親が倒れた。脳梗塞だ」
私は息を止めた。
病気。
それは誰のせいでもない。
責められない現実。
「後遺症が残った。右半身と言語。……介護の手続きが必要になった」
恒一の声が低くなる。
「絵里紗は一人娘だ。頼れる親族がいなかった」
私はグラスの水に目を落とした。
透明な水が、揺れる。
私の中も揺れる。
同情が湧く。
同時に、怒りも湧く。
「……だからあなたが?」
「俺の会社の法務と人事に、相談が来た」
恒一は続ける。
「彼女の父親の会社——下請けだ。倒れたことで契約が止まりかけた。従業員が路頭に迷う」
仕事。
仕事は確かに、重い。
誰かの生活がぶら下がっている。
「俺は、整理した」
恒一が言う。
「融資、契約の継続、後継者の調整、介護サービス、後見……」
彼は淡々と並べる。
淡々と並べながら、目の奥に疲れが滲んでいる。
「……それが“仕事”?」
私は言った。
喉が痛い。
「仕事だ」
恒一が頷く。
「俺が手を引けば、彼女の父親の会社が潰れる可能性がある。……それだけじゃない」
恒一は一拍置いて言った。
「絵里紗が、追い詰められていた」
私は黙った。
追い詰められている人を、責められない。
でも、私は——追い詰められているのに、誰にも気づかれなかった。
「俺は、“善意”で動いた」
恒一が言う。
「余計な噂が出ないように。お前が傷つかないように。だから言わなかった」
——言わなかった。
私はそこで、笑ってしまった。
乾いた笑い。
「それが、あなたの善意?」
私はゆっくり言った。
「私が傷つかないようにって、私から何も聞く権利を奪うの?」
恒一の眉が歪む。
初めて、反論が出ない顔。
私は続けた。
「あなたの善意は、私を守ってない」
言葉が鋭くなる。
止められない。
「あなたの善意は、あなた自身を守るための沈黙よ。
面倒な会話をしないための沈黙。
夫婦の“説明”をしないための沈黙」
恒一の喉が動く。
そして、珍しく言葉が出た。
「……違う。俺は——怖かった」
その言葉に、私は動きが止まった。
「怖かった?」
「お前が、傷つく顔を見るのが」
恒一の声が、少しだけ揺れた。
「絵里紗の名前を出した瞬間、お前が全部を“奪われた”と思うのが分かってた」
——分かってた。
分かってたのに、黙った。
私は、静かに言った。
「分かってたなら、なおさら言うべきだった」
私は目を上げた。
「私、あなたに優しくされた覚えがないって言ったよね」
恒一が一瞬だけ目を伏せる。
「回廊の外套」
私は言う。
「私が見たのは、あなたが“優しくできる人”だって事実」
恒一は、苦しそうに息を吐いた。
「……あれは、咳き込んだから」
言い訳に聞こえる。
私は首を横に振る。
「理由じゃない」
「……」
「あなたの指先が丁寧だった。迷いがなかった。
その優しさは“必要なこと”じゃない。感情よ」
恒一の沈黙が、今度は重い。
でも、逃げの沈黙じゃない。
向き合うための沈黙。
私は、最後に言った。
「あなたの心に絵里紗さんしかいないなら」
声が震える。
でも、言う。
「私は、身を引ける。
……この前も言ったけど、絵里紗さんとお幸せに。
これ、本心だから」
恒一の顔が、初めて明確に揺れた。
焦り。
混乱。
そして——取り落としそうな恐怖。
「……叶乃、それは」
言葉が詰まる。
詰まるのが、今までの彼だった。
でも今日は違う。
彼は詰まりながらも、言葉を掴もうとしている。
「俺は、絵里紗と一緒になりたいわけじゃない」
恒一が言った。
「助けたかった。……過去の自分が救われなかったから」
過去の自分。
その言葉に、私は初めて恒一の“人間”を見た気がした。
完璧な御曹司じゃない、弱い部分。
私は、静かに問う。
「じゃあ、私のことは?」
恒一の目が、ようやく私を見る。
初めて“立場”じゃなく、私を見る。
「……俺は」
恒一の声が掠れる。
「お前が消えるのが怖い」
昨日の“困る”より、少しだけ深い。
でもまだ、足りない。
私はそれを分かっている。
「怖いなら」
私は言った。
「言葉をちょうだい。説明をちょうだい」
息を吸う。
「私を、沈黙で守らないで」
恒一は、長く息を吐いた。
そして、やっと頷いた。
「……分かった。全部話す」
「今まで、なぜ言えなかったのかも?」
「……ああ」
恒一は言った。
「俺の弱さも含めて」
その瞬間、私は初めて——
“誤解”という言葉の向こうに、現実があることを知った。
陰謀じゃない。
ただ、人の弱さと善意が、夫婦を壊していただけ。
そして私は、まだ決めきれていない。
許すのか、離れるのか。
でもひとつだけ、確かだ。
——私はもう、悪役のまま黙らない。

