夜明け前の空は、色がない。
薄い灰色が窓に張りついて、街の輪郭までぼんやり溶かしている。
ホテルのベッドの上で、私は目を開けたまま天井を見ていた。
眠れたのか、眠れていないのか分からない。
ただ、胸の奥だけがずっと痛いまま朝になった。
枕元のスマートフォンが小さく震える。
画面に出た名前は——白石恒一。
私は、すぐには出なかった。
指先が動かない。
昨日の回廊、外套、乾杯、門の前の沈黙。
それらがひとつの塊になって喉に詰まっている。
もう一度震える。
着信が切れ、すぐにメッセージが届いた。
『どこにいる。家にいない。』
短い。
焦りが、句読点の少なさに滲む。
私は画面を見つめた。
——家にいない。
たったそれだけで、彼はこんな連絡をしてくる。
“会話”はできないのに、“所在確認”はできる。
スマートフォンがまた震えた。今度は電話。
私は、出ない。
出たら、また“奥様の声”になる。
丁寧に、穏やかに、何もなかったふりをしてしまう。
さらにメッセージ。
『今日、話す。戻れ。』
命令。
いつも通りの短さ。
でも、いつもより“急いでいる”。
私は息を吸って、吐いた。
透の言葉を思い出す。
避難は逃げじゃない。
指先を動かす。
返事は短くていい。
短い方が、私の心を守れる。
『今日は無理。明日。』
送信した瞬間、胸が少しだけ軽くなった。
私の言葉が、私のものとして出た。
悪役の台詞じゃない。叶乃の言葉だ。
——その数分後。
部屋のチャイムが鳴った。
心臓が跳ねる。
透なら、必ず連絡を入れる。勝手に来ない。
だからこれは——分かってしまう。
もう一度チャイム。
そして、低い声。
「……叶乃。開けて」
恒一。
私は息を止めた。
どうして、ここが分かった。
陰謀なんてない。現実の力だ。
白石家の秘書、運転手、ホテルへの連絡——
この家の力は、私の居場所も逃げ場所も簡単に特定する。
チャイムが三度目。短く、強く。
「開けろ。話がある」
私はベッドから降り、ドアへ向かった。
鍵に手をかけて、止まる。
開けたら、終わる。
開けたら、私はまた“奥様”になる。
でも、開けなければ——私は“逃げた妻”として噂の餌になる。
……どちらにしても悪役。
その事実が、妙に冷静さをくれた。
私は鍵を開け、チェーンをかけたままドアを少しだけ開けた。
隙間から見えた恒一は、珍しく乱れていた。
髪が整っていない。
ネクタイも緩い。
目の下に、薄い影。
——焦っている。
それを見た瞬間、胸が痛んだ。
痛むのに、嬉しくない。
焦りは愛じゃない。
焦りは“管理できない不安”だ。
「……何してる」
恒一が低い声で言った。
「家にいない。連絡もつかない。どういうつもりだ」
どういうつもり。
まるで私が事件を起こしたみたいな言い方。
「……避難」
私は小さく答えた。
「避難?」
恒一の眉が動く。
「何から」
——何から。
昨日の外套から。乾杯から。沈黙から。
全部を言わせるの?
喉の奥が痛くなる。
「……今は話せない」
私は正直に言った。
“奥様”の丁寧さを削って。
恒一の目が僅かに大きくなる。
私が拒否を口にするのが、きっと珍しい。
「話せない、じゃない」
恒一が言った。
「話せ。夫婦だろ」
夫婦。
その言葉が胸に刺さって、逆に笑いそうになる。
夫婦なのに、私はずっと一人で立っていた。
夫婦なのに、私は“仕事”の一言しか知らない。
「夫婦なら」
私は口を開いた。
声が震えそうで、奥歯で押さえた。
「どうして、私の質問には答えないの」
やっと言えた。
何年も飲み込んできた言葉。
恒一が一瞬黙る。
その沈黙はいつもと同じ。
でも今日は違う。
沈黙の向こうで“言葉を探している”気配がある。
「……仕事だ」
恒一は結局いつもの言葉を出した。
私は声にならない笑いを漏らした。
喉の奥がひくひくして、涙が出そうになる。
「やっぱり」
私は言った。
「便利ね」
「叶乃」
恒一の声が少しだけ強くなる。
「昨日、見た」
私は唐突に言った。
言った瞬間、胸が裂けそうに痛い。
恒一が眉を寄せる。
「何を」
——わかってない。
本当に、わかってない。
「回廊で」
私はゆっくり言った。
「絵里紗さんに外套を掛けてた。……すごく、優しかった」
言い終えた瞬間、涙が滲んだ。
私はそれを見せないように視線を逸らした。
恒一の表情が僅かに揺れた。
揺れたけれど、すぐに整う。
整うのが、彼の癖。
「……誤解だ」
恒一が言う。
また。
またその言葉。
誤解。
私の痛みを、私のせいにできる言葉。
「誤解なら、解いて」
私は昨日と同じ言葉を繰り返した。
繰り返すのは恥ずかしい。
でもこれ以上、飲み込みたくない。
恒一がチェーン越しに手を伸ばしかけて止めた。
触れられない距離。
それが、今の私たちみたいだ。
「……叶乃、聞いてくれ」
恒一の声が、いつもより低く真剣になる。
「俺は——」
そのとき、恒一のポケットが震えた。
スマートフォン。
彼は一瞬だけ迷って、画面を見た。
その迷いが、私を刺す。
——誰から?
仕事?
絵里紗?
秘書?
私は疑う自分が嫌で目を閉じた。
恒一が短く言った。
「……すぐ戻る」
誰に向けた言葉か分からないまま。
そして、私に向き直る。
「今は時間がない。とにかく家に戻れ」
命令。
説明のない結論。
それが、恒一の“いつも”だ。
私は、ゆっくり首を横に振った。
「戻らない」
小さな声。
でも、はっきりした拒否。
恒一の目が大きくなる。
焦りが、ようやく表に出る。
「……何を言ってる」
「何を言ってるのは、あなた」
私は震える声で言った。
「私はずっと、説明のない沈黙の中にいた」
恒一が口を開けて、閉じた。
言葉が出ない。
その“出ない”が、私を何年も殺してきた。
私はチェーンを外さずに、静かに言う。
「……明日」
「明日?」
「明日なら、話す。……私も、聞く」
私は息を吸って続けた。
「だから今日は、帰って」
恒一は動かなかった。
ドアの隙間から見える目が落ち着かない。
まるで初めて、“妻が自分の手から離れる”のを見たみたいに。
「叶乃……」
恒一が、珍しく名前を長く呼ぶ。
その呼び方だけで、胸が痛い。
私は、言った。
「……私が消えたら、困る?」
問いは残酷だ。
でも聞かなければいけない。
恒一の眉が歪んだ。
焦りが、答えより先に出る。
「困るに決まってる」
即答。
——愛じゃない。
でも、初めての“即答”。
私はその言葉を胸に落とした。
嬉しくない。
でも、虚しくもない。
「じゃあ、明日」
私は言った。
「ちゃんと答えて。困る理由を」
恒一は一瞬黙り、そして小さく頷いた。
頷いて、ようやく後ずさる。
「……わかった。明日だ」
恒一が廊下を曲がり、姿が消える。
私はドアを閉め、鍵をかけた。
——心臓がうるさい。
手が震える。
膝が力を失う。
私はドアに背を預けて座り込んだ。
涙が出る。
出るのに、昨日の涙とは違う。
怖い。
でも、どこかで——
“このまま終わらせない”という小さな火が、胸の奥に残っている。
スマートフォンが震えた。
透からだ。
『大丈夫か』
私は、短く返した。
『息、してる』
送信して、私は目を閉じた。
泣きながらでも、呼吸をした。
それだけで、今日は勝ちだと思えた。
薄い灰色が窓に張りついて、街の輪郭までぼんやり溶かしている。
ホテルのベッドの上で、私は目を開けたまま天井を見ていた。
眠れたのか、眠れていないのか分からない。
ただ、胸の奥だけがずっと痛いまま朝になった。
枕元のスマートフォンが小さく震える。
画面に出た名前は——白石恒一。
私は、すぐには出なかった。
指先が動かない。
昨日の回廊、外套、乾杯、門の前の沈黙。
それらがひとつの塊になって喉に詰まっている。
もう一度震える。
着信が切れ、すぐにメッセージが届いた。
『どこにいる。家にいない。』
短い。
焦りが、句読点の少なさに滲む。
私は画面を見つめた。
——家にいない。
たったそれだけで、彼はこんな連絡をしてくる。
“会話”はできないのに、“所在確認”はできる。
スマートフォンがまた震えた。今度は電話。
私は、出ない。
出たら、また“奥様の声”になる。
丁寧に、穏やかに、何もなかったふりをしてしまう。
さらにメッセージ。
『今日、話す。戻れ。』
命令。
いつも通りの短さ。
でも、いつもより“急いでいる”。
私は息を吸って、吐いた。
透の言葉を思い出す。
避難は逃げじゃない。
指先を動かす。
返事は短くていい。
短い方が、私の心を守れる。
『今日は無理。明日。』
送信した瞬間、胸が少しだけ軽くなった。
私の言葉が、私のものとして出た。
悪役の台詞じゃない。叶乃の言葉だ。
——その数分後。
部屋のチャイムが鳴った。
心臓が跳ねる。
透なら、必ず連絡を入れる。勝手に来ない。
だからこれは——分かってしまう。
もう一度チャイム。
そして、低い声。
「……叶乃。開けて」
恒一。
私は息を止めた。
どうして、ここが分かった。
陰謀なんてない。現実の力だ。
白石家の秘書、運転手、ホテルへの連絡——
この家の力は、私の居場所も逃げ場所も簡単に特定する。
チャイムが三度目。短く、強く。
「開けろ。話がある」
私はベッドから降り、ドアへ向かった。
鍵に手をかけて、止まる。
開けたら、終わる。
開けたら、私はまた“奥様”になる。
でも、開けなければ——私は“逃げた妻”として噂の餌になる。
……どちらにしても悪役。
その事実が、妙に冷静さをくれた。
私は鍵を開け、チェーンをかけたままドアを少しだけ開けた。
隙間から見えた恒一は、珍しく乱れていた。
髪が整っていない。
ネクタイも緩い。
目の下に、薄い影。
——焦っている。
それを見た瞬間、胸が痛んだ。
痛むのに、嬉しくない。
焦りは愛じゃない。
焦りは“管理できない不安”だ。
「……何してる」
恒一が低い声で言った。
「家にいない。連絡もつかない。どういうつもりだ」
どういうつもり。
まるで私が事件を起こしたみたいな言い方。
「……避難」
私は小さく答えた。
「避難?」
恒一の眉が動く。
「何から」
——何から。
昨日の外套から。乾杯から。沈黙から。
全部を言わせるの?
喉の奥が痛くなる。
「……今は話せない」
私は正直に言った。
“奥様”の丁寧さを削って。
恒一の目が僅かに大きくなる。
私が拒否を口にするのが、きっと珍しい。
「話せない、じゃない」
恒一が言った。
「話せ。夫婦だろ」
夫婦。
その言葉が胸に刺さって、逆に笑いそうになる。
夫婦なのに、私はずっと一人で立っていた。
夫婦なのに、私は“仕事”の一言しか知らない。
「夫婦なら」
私は口を開いた。
声が震えそうで、奥歯で押さえた。
「どうして、私の質問には答えないの」
やっと言えた。
何年も飲み込んできた言葉。
恒一が一瞬黙る。
その沈黙はいつもと同じ。
でも今日は違う。
沈黙の向こうで“言葉を探している”気配がある。
「……仕事だ」
恒一は結局いつもの言葉を出した。
私は声にならない笑いを漏らした。
喉の奥がひくひくして、涙が出そうになる。
「やっぱり」
私は言った。
「便利ね」
「叶乃」
恒一の声が少しだけ強くなる。
「昨日、見た」
私は唐突に言った。
言った瞬間、胸が裂けそうに痛い。
恒一が眉を寄せる。
「何を」
——わかってない。
本当に、わかってない。
「回廊で」
私はゆっくり言った。
「絵里紗さんに外套を掛けてた。……すごく、優しかった」
言い終えた瞬間、涙が滲んだ。
私はそれを見せないように視線を逸らした。
恒一の表情が僅かに揺れた。
揺れたけれど、すぐに整う。
整うのが、彼の癖。
「……誤解だ」
恒一が言う。
また。
またその言葉。
誤解。
私の痛みを、私のせいにできる言葉。
「誤解なら、解いて」
私は昨日と同じ言葉を繰り返した。
繰り返すのは恥ずかしい。
でもこれ以上、飲み込みたくない。
恒一がチェーン越しに手を伸ばしかけて止めた。
触れられない距離。
それが、今の私たちみたいだ。
「……叶乃、聞いてくれ」
恒一の声が、いつもより低く真剣になる。
「俺は——」
そのとき、恒一のポケットが震えた。
スマートフォン。
彼は一瞬だけ迷って、画面を見た。
その迷いが、私を刺す。
——誰から?
仕事?
絵里紗?
秘書?
私は疑う自分が嫌で目を閉じた。
恒一が短く言った。
「……すぐ戻る」
誰に向けた言葉か分からないまま。
そして、私に向き直る。
「今は時間がない。とにかく家に戻れ」
命令。
説明のない結論。
それが、恒一の“いつも”だ。
私は、ゆっくり首を横に振った。
「戻らない」
小さな声。
でも、はっきりした拒否。
恒一の目が大きくなる。
焦りが、ようやく表に出る。
「……何を言ってる」
「何を言ってるのは、あなた」
私は震える声で言った。
「私はずっと、説明のない沈黙の中にいた」
恒一が口を開けて、閉じた。
言葉が出ない。
その“出ない”が、私を何年も殺してきた。
私はチェーンを外さずに、静かに言う。
「……明日」
「明日?」
「明日なら、話す。……私も、聞く」
私は息を吸って続けた。
「だから今日は、帰って」
恒一は動かなかった。
ドアの隙間から見える目が落ち着かない。
まるで初めて、“妻が自分の手から離れる”のを見たみたいに。
「叶乃……」
恒一が、珍しく名前を長く呼ぶ。
その呼び方だけで、胸が痛い。
私は、言った。
「……私が消えたら、困る?」
問いは残酷だ。
でも聞かなければいけない。
恒一の眉が歪んだ。
焦りが、答えより先に出る。
「困るに決まってる」
即答。
——愛じゃない。
でも、初めての“即答”。
私はその言葉を胸に落とした。
嬉しくない。
でも、虚しくもない。
「じゃあ、明日」
私は言った。
「ちゃんと答えて。困る理由を」
恒一は一瞬黙り、そして小さく頷いた。
頷いて、ようやく後ずさる。
「……わかった。明日だ」
恒一が廊下を曲がり、姿が消える。
私はドアを閉め、鍵をかけた。
——心臓がうるさい。
手が震える。
膝が力を失う。
私はドアに背を預けて座り込んだ。
涙が出る。
出るのに、昨日の涙とは違う。
怖い。
でも、どこかで——
“このまま終わらせない”という小さな火が、胸の奥に残っている。
スマートフォンが震えた。
透からだ。
『大丈夫か』
私は、短く返した。
『息、してる』
送信して、私は目を閉じた。
泣きながらでも、呼吸をした。
それだけで、今日は勝ちだと思えた。

