優しさの行き先

 グラスに注がれたシャンパンは、きめ細かな泡を立てながら、何事もない顔で金色に揺れていた。
 同じように——私も、何事もない顔で微笑む。

 都心のホテル最上階。白い花と淡い照明が“上品な夜”をつくり、ドレスの裾が擦れる音まで、ここでは礼儀の一部になる。
 私の名札には、はっきりとこう刻まれていた。

 白石 叶乃(しらいし かの)
 ……白石家の嫁。白石財閥の御曹司、白石恒一の妻。

 その肩書は、私を守る盾のはずだった。
 でも実際は、私を刺すためのラベルにすぎない。

「叶乃様、お久しぶり」
 背後から、耳に馴染んだ甘い声がした。

 振り向くと、九条夫人が扇子のように指先を重ねて笑っている。サロンの主。誰よりも華やかで、誰よりも“物語”が好きな人だ。
 彼女の周りには、当然のように数人の夫人と令嬢が集まり、その視線が一斉に私へ向く。

「こんばんは、九条夫人」
 私は完璧な角度で頭を下げ、頬に笑みを貼りつける。

「相変わらずお綺麗ね。ねえ皆さん、白石夫人は本当に可愛らしいでしょう?」
 ほめ言葉の形をした視線が、私の顔立ちをなぞり、次に——指輪へ落ちた。

 左手の薬指。
 ダイヤの輝きが、今夜はやけに冷たい。

「白石様は? ご一緒じゃないの?」
 別の夫人がさりげなく問う。さりげなく、が、この世界ではたいてい嘘だ。

「主人は、まだ仕事が立て込んでいるようで」
 私は、いつもの返答を口にした。声は揺れない。まるで朗読でもするように。

「まあ……お忙しいのね」
 九条夫人は同情の表情を作った。けれどその目の奥は、薄い光沢を帯びている。好奇心の光だ。

「白石様って、本当にお仕事一筋よねえ」
「でも、最近……遅いって聞きますわ」
「そうそう。帰宅が……ね?」

 誰かが言った瞬間、空気の温度が一度だけ落ちた。
 私は泡の弾ける音を聞きながら、微笑みを崩さない。

「おかげさまで」
 言葉を短く切る。余計な隙を作らないために。

 けれど、彼女たちは隙を待ってなどいない。
 必要なのは、私が息をすることだけ。息があるかぎり、その隙間に噂は入り込む。

「——叶乃様」
 九条夫人が、扇子の端で顎を隠しながら囁いた。
「……お強いのね。やっぱり、“悪役”は違うわ」

 一瞬、耳が熱くなった。
 けれど、私は笑った。笑ってしまう。
 笑わなければ、ここでは“負け”になるから。

「そう見えますか?」
 私はシャンパンを口に含んだ。甘い。冷たい。喉を通っても、心は温まらない。

「だって……」
 九条夫人は言い淀んだふりをして、言葉を選ぶふりをして、最も刺さる形に整える。
「“初恋を奪った女”って、ずっと言われ続けても……平然としていらっしゃるんだもの」

 ——ああ。来た。
 今夜の本題。
 彼女たちの“物語”の核心。

 私の胸の奥が、静かに縮む。
 それでも私は、笑みの角度を変えない。

「奪った覚えはありませんわ」
 言えるのは、それだけだった。
 反論は火種になる。泣けば餌になる。怒れば“悪役の本性”になる。

「まあまあ、そうよね」
 隣の令嬢が軽く手を叩く。
「でも、みんなそう思ってるのよ。だって、白石様の“初恋の方”って、あの一ノ瀬絵里紗様でしょう?」

 その名前が出た瞬間、私の背筋は僅かに硬くなった。
 微笑みは崩さない。崩せない。
 けれど、心が——音を立てずにひび割れる。

 一ノ瀬絵里紗。
 上品で、華奢で、守られるのが似合う人。
 社交界が好む“ヒロイン”の条件を、息をするように満たしている。

 そして私は——彼女の反対側に置かれた人間だ。
 可愛らしい顔立ちなのに、悪役。
 笑っているのに、冷たい女。
 妻なのに、奪った女。

「……絵里紗様は、素敵な方ですものね」
 私はそう言った。
 自分の声が、遠い。

「そうなのよ。だから余計にね」
 九条夫人が微笑む。
「“因果応報”って、言葉があるでしょう?」

 私の手の中で、グラスがかすかに鳴った。
 氷は入っていない。
 鳴ったのは、私の指が震えたからだ。

 その震えを、誰にも気づかせないように。
 私はグラスをそっとテーブルに置き、背筋を伸ばした。

「因果応報……」
 私は反芻するように呟いた。
 まるで、他人事みたいに。

 九条夫人は、同情の仮面をつけたまま首を傾げる。
「叶乃様は、強いわ。だって白石様を射止めたんですもの。絵里紗様がいらした頃は、あんなに——」

 言いかけた言葉が、ふっと宙に溶けた。
 代わりに、別の夫人が笑う。

「まあ、昔の話よ。今は叶乃様が奥様だもの」
 その“今”が、いつまで続くのか。
 そんな視線が、私の背中に降り注ぐ。

 私は、息を吐く。
 ドレスの胸元が少しだけ上下する。
 たったそれだけで、噂は増殖するのだろう。

「叶乃」
 不意に、低い声が私の名を呼んだ。

 ——その声だけは、噂の音より先に私へ届く。

 振り向くと、そこにいたのは朝比奈透だった。
 黒いスーツ。派手ではない。けれど立ち姿が落ち着いていて、周囲の空気を一段だけ静かにする。

 幼なじみ。
 私が“倉橋家の叶乃”だった頃から知っている人。
 そして、この世界で唯一、私をラベルで呼ばない人。

「朝比奈さん」
 私は名を呼びかけた。
 透は、軽く目を細める。

「……顔が、笑ってない」
 小さな声だった。私にしか聞こえない距離。

 私は笑みを深くした。
「そんなこと、ありません」

 透はそれ以上、否定しない。
 代わりに、私の横に自然に立った。
 ——それだけで、周囲の夫人たちの会話の温度が微妙に変わる。

「叶乃様、ご友人?」
 九条夫人の声が甘くなる。獲物を見つけた声だ。

「幼なじみです」
 透が先に答えた。丁寧で、しかし線を引く口調。

「まあ。頼もしいわねえ」
 九条夫人は笑う。
 噂好きの人は、関係性が増えるほど喜ぶ。三角形を作りたがる。
 でも透は、彼女たちに“物語”を渡さない。

「倉橋家の方々へご挨拶が遅れてしまって。今夜は少し、顔を出すだけです」
 透がそう言い、私へ視線を落とした。

 その目が言う。
 ——大丈夫か。無理してないか。
 言葉にしない優しさが、胸の奥に刺さる。

 私は頷いた。頷くしかない。
 私の目の前には、社交界の笑顔がある。
 この場で崩れたら、私は“悪役の失態”になる。

「恒一様は、まだいらっしゃらないの?」
 令嬢がまた聞く。
 わざとらしいほど無邪気に。

 私は口を開きかけて——
 透が、ほんの僅かに私の前へ出た。

「白石さんは、遅くなると伺っています」
 淡々とした声。事実だけ。
 そして、余計な余白を与えない。

 それでも彼女たちは、余白を作る天才だ。

「……ねえ、叶乃様。お辛くないの?」
 九条夫人が私の手元に視線を落とす。
「だって、奥様って……幸せそうに見えないといけないでしょう? なのに最近、白石様は——」

 言葉が続く前に、私は微笑んだ。
 強く、きれいに。

「大丈夫です」
 私は言った。
「私、こう見えて強いんですの」

 ——強い。
 その言葉を口にするたび、心が少しずつ削れるのに。

 透が、私の横で息を吸った気配がした。
 そして、私にだけ聞こえる声で言う。

「……叶乃。今日は、帰ろう」

 その一言が、熱い。
 私の胸の奥に、灯が点るみたいに。

 でも私は、首を横に振った。小さく。
「まだ、始まったばかりよ」

 透は、眉を動かさない。
 ただ、静かに言った。

「始まったばかりだから、帰るんだ」
 言葉は穏やかなのに、揺るがない。

 私は、喉が詰まるのを感じた。
 ここで泣いたら終わりだ。
 泣く権利なんて、最初から私にはないのに。

 けれど、透の隣に立つだけで、私は一瞬だけ思ってしまう。
 ——泣いていい場所が、あるのかもしれない、と。

 その瞬間。
 会場の入口付近がざわめいた。

「白石様……!」
「来たわ」

 名前が波のように広がる。
 私は反射で視線を向けた。
 透も、同じ方向を見る。

 扉が開いて、黒いスーツの群れが揺れ、中心に——白石恒一が現れた。

 いつも通り無表情。
 いつも通り無駄のない歩幅。
 そして、私を見つけた瞬間だけ、視線がほんの僅かに留まる。

 ——それだけ。

 私は微笑んだ。
 妻として、完璧に。
 悪役として、完璧に。

 恒一は近づいてきて、形式通りに言った。

「遅くなった」
 それだけ。

 私は頷き、同じだけの温度で返す。

「お忙しいのね」
 本当は、聞きたいことが山ほどあるのに。

 恒一の視線が、透へ移った。
 一瞬。ほんの一瞬だけ、空気が硬くなる。

「朝比奈さん」
 恒一が言う。低い声。

「白石さん」
 透も同じ温度で返す。

 ——男同士の、静かな測量。
 誰も笑わない。誰も怒らない。
 でも私は、その間に立っているだけで息が苦しくなる。

 社交界の視線が、私の背中を押す。
 “初恋を奪った妻”
 “寄り添う幼なじみ”
 “遅い夫”
 物語の形が、勝手に整っていく。

 私は笑った。
 今日も、悪役の仮面をつけて。

 けれど、透が小さく囁いた。

「……帰るタイミングは、俺が作る」
 その言葉が、私の胸を少しだけ守った。

 私は頷く。
 誰にも見えないほど小さく。

 ——そして私は知らなかった。
 この夜が、噂の“始まり”ではなく、
 私の心が折れる“予告”だったことを。