朝、蓮が家を出るのは早い。
結衣が起きたときには、もうネクタイを結び終えていて、玄関の鏡の前で袖口を整えている。
その仕草はいつも正確で、余計な感情が挟まらない。
「いってらっしゃいませ」
結衣は“夫”に言うはずの言葉を、つい“お客様”みたいに言ってしまう。
蓮は靴を履きながら、短く頷いた。
「……行ってくる」
それだけ。
そして、扉が閉まる。
結衣はキッチンに戻り、シンクに残った二つのマグカップを見つめた。
昨夜、蓮が飲んだのはほんの数口だった。
猫の話をしたかったのか。
したくなかったのか。
分からないまま、結衣だけが“知らない名前”に取り残される。
小春。
ルル。
(……聞けばいいのに)
自分にそう言っても、喉が動かない。
聞いたら、蓮が困る気がする。
聞いたら、私の居場所がもっと狭くなる気がする。
結衣はスマホを手に取り、蓮の連絡先を開いた。
「猫、好きだったんだね」
それだけ打って、消した。
――軽すぎる。
でも、重いと嫌われる。
その間で、結衣はいつも沈む。
昼過ぎ、真琴から電話が来た。
『結衣、元気?』
「……元気だよ」
声がかすれて、結衣は咳払いで誤魔化した。
『うそ。声がうそ。どうしたの』
真琴は昔から、結衣の嘘に気づく。
「……ねえ、真琴。男の人ってさ……」
『うん』
「……優しいのに、冷たいことある?」
真琴が小さく息を吸ったのが分かった。
『結衣、それ“優しい”じゃなくて、“壁”じゃない?』
結衣は黙った。
壁。
その言葉がしっくり来すぎて、怖い。
真琴は続けた。
『話し合った?』
「ううん……」
『じゃあ、聞きなよ。結衣は我慢しすぎる』
聞けたら、こんなに苦しくない。
結衣は笑って誤魔化した。
「……うん。頑張る」
電話を切ったあと、結衣は小さくため息をついた。
頑張る、と言いながら、何を頑張るのか分からない。
夕方、雨が上がった。
結衣は買い物袋を持って近所のスーパーへ行き、帰り道でふと足を止めた。
路地裏の角。
昨日、蓮を見た場所から少し離れたところだ。
(……行くわけないよね)
結衣は自分に言い聞かせる。
でも、足は勝手にそちらへ向かった。
角を曲がると、段ボール箱はもうなかった。
濡れたアスファルトだけが、乾きかけている。
そこに猫はいない。
蓮もいない。
当たり前なのに、胸が少しだけ軽くなって、同時に痛んだ。
(私、何やってるんだろう)
結衣は首を振り、家へ戻った。
夜。
蓮の帰宅は今日も遅い。
時計が十時を過ぎたころ、鍵の音がした。
結衣は玄関へ行き、いつもの言葉を口にする。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
蓮はコートを脱ぎながら、テーブルの上に小さな紙袋を置いた。
昨日と同じ。
結衣の胸が跳ねる。
「それ……」
結衣は言いかけて、止めた。
聞きたい。
でも、聞いたら“踏み込む”ことになる。
蓮は紙袋から、猫用の餌の小袋を取り出して、棚の奥にしまった。
結衣の視線に気づいたのか、蓮が僅かに眉を動かす。
「……気になるか」
その問いは、責めるようにも、戸惑うようにも聞こえた。
結衣は喉が詰まった。
“気になる”なんて言ったら、妻としてみっともない。
でも、“気にならない”と言ったら、もっと惨めだ。
結衣は笑って、逃げる言葉を選んだ。
「……猫、好きなんですね」
やっと言えた。
たった一言なのに、心臓がうるさい。
蓮は一瞬、目を逸らした。
「……別に」
別に。
その二文字が、結衣の心を折る。
「……そう、ですか」
結衣は笑った。
笑顔が痛い。
蓮は靴下を脱ぎながら、短く言う。
「……放っておけないだけだ」
また、その言葉。
放っておけない。
結衣は胸の中で、同じ言葉を反芻する。
(私のことは?)
聞けない。
結衣はキッチンへ逃げた。
夕食の温め直しをしながら、背中で蓮の気配を感じる。
「……結衣」
呼ばれて、結衣の手が止まる。
「はい」
蓮は、言葉を探しているように黙った。
その沈黙に、結衣は期待してしまう。
“何かを説明してくれる”のではないかと。
でも、蓮が口にしたのは、いつもと同じだった。
「……遅くなる。先に寝ろ」
「……はい」
期待した自分が恥ずかしくて、結衣は湯気の向こうに顔を隠す。
蓮は部屋へ行く。
結衣は食器を並べながら、ひとりごとのように呟いた。
「……猫には、話しかけられるんだ」
声は小さく、誰にも届かない。
でも結衣の胸には、確かに届いてしまう。
あの雨の路地裏で、蓮が猫に向けた“柔らかい声”。
その声を思い出すたび、結衣は自分が薄くなっていくのを感じた。
聞けない。
言えない。
触れられない。
距離が、今日も埋まらなかっ

