あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

 玄関に入った瞬間、結衣は濡れた靴のまま立ち尽くした。

 雨の路地裏で見た光景が、まだ瞼の裏に貼りついている。
 猫を抱いた蓮。
 あの柔らかい声。
 そして――白いレインコートの女性。

(誰……?)

 問いが、喉に刺さって息がしづらい。

 結衣は傘を畳み、手を拭く。
 丁寧に。いつも通りに。
 何もなかったふりをするために。

 リビングは暗い。
 蓮はまだ帰っていない。
 それだけで、少しだけ“逃げられた”気がした。

 結衣はキッチンで湯を沸かし、カップを一つ出した。
 自分の分だけ。
 二人分を並べると、苦しくなる。

 湯気が上がる。
 その白さの中に、さっきの女性の笑顔が浮かぶ。

「九条さん、本当に優しい」

 ――優しい。
 その言葉は、結衣が言われたかった言葉だ。

(私には……)

 結衣はカップを持つ手に力が入り、熱さに指を引いた。
 痛みが、少しだけ救いになる。

 鍵が回った。

 結衣は反射で背筋を伸ばし、いつもの笑顔を作る。
 作らなければ壊れてしまう。

「お帰りなさい」

 蓮が玄関に立っていた。
 スーツは少し湿っていて、肩に雨粒が残っている。
 そして――腕に、薄い紙袋。

 結衣の心臓が跳ねた。

「……ただいま」

 蓮は紙袋を持ったまま、靴を揃える。
 結衣は目を逸らせなかった。
 紙袋の中身が、何かは分からない。けれど、“誰か”を想像してしまう。

「それ……何ですか?」

 声が思ったより冷たく出た。
 結衣は自分で驚き、慌てて笑おうとする。

「すみません。変な聞き方を……」

 蓮は一瞬だけ眉を寄せた。

「……猫の、ものだ」

 猫。
 結衣の胸がざわつく。

「猫……?」

 蓮は短く頷き、紙袋をテーブルの上に置いた。
 中から覗いたのは、小さなタオルと、猫用のミルクらしいパック。

(猫のために、買ったんだ)

 その事実は、少しだけ安堵をくれる。
 でも同時に、別の痛みも運んでくる。

(私には、あんな声をくれないのに)

 結衣は唇を噛んだ。
 聞きたい。
 さっき見た女性のことを。
 でも聞けない。

 蓮はネクタイを外し、手を洗いながら言った。

「……濡れてた。放っておけない」

 “放っておけない”。
 その言葉は、結衣が一番欲しい言葉だった。

(私は……放っておけるの?)

 心の中で叫んだ瞬間、涙が喉まで上がった。
 結衣は急いでカップを持ち、キッチンへ背を向けた。

「お茶、淹れますね」

「……頼む」

 その返事も、いつも通り短い。
 路地裏で聞いた“頼む”とは違う。
 結衣は背中で、その違いを感じてしまう。

 茶を淹れて、カップを二つ置いた。
 蓮が座る。結衣も向かいに座る。
 夫婦の形だけは、整う。

 結衣はカップに口をつけた。
 熱いはずなのに、味がしない。

 沈黙が落ちる。

 結衣は、勇気を振り絞って口を開いた。

「……猫、なんて。知らなかったです」

 蓮の視線が結衣に向く。
 結衣の胸が跳ねる。

「……言ってなかった」

 それだけ。
 理由も、続きもない。

(どうして言ってくれないの)

 結衣は笑いながら頷く。
 心が、どんどん置いていかれる。

「……あの。今日、雨の中で……」

 言ってしまいそうになる。
 見た、と。
 あなたが猫に優しくしていた、と。
 知らない女性と一緒だった、と。

 でも――結衣は言えなかった。
 言った瞬間、すべてが壊れる気がしたから。

 蓮はスマホを見ていた。
 画面が光り、通知が一瞬だけ見えた。

『小春:ルル、無事に温まりました。ありがとうございます』

 結衣の目が、その文字に吸い寄せられる。

(……小春?)

 心臓が、音を立てて落ちた。

 名前がある。
 蓮のスマホに、女性の名前で連絡が来る。
 望月だけじゃない。

 結衣は、息が詰まった。
 指先が震えて、カップが小さく鳴った。

 蓮が顔を上げる。

「……どうした」

 結衣は笑った。
 涙が出そうなのに、笑うしかない。

「なんでも……ありません」

 蓮は何か言いかけて、また飲み込む。
 いつものことだ。

 結衣は、カップを置いて立ち上がった。
 台所へ行くふりをして、距離を取る。

 背中に、蓮の視線が刺さる。
 でも、言葉は来ない。

 結衣はシンクの前で、蛇口をひねった。
 水の音を大きくするために。

(小春さんって、誰)

 問いが胸の中で膨らむ。

 結衣はタオルで手を拭きながら、鏡のように光る水面を見つめた。
 そこに映る自分の顔が、思ったよりも弱っている。

(私は……妻なのに)

 その夜、蓮はいつも通り「先に寝ろ」と言った。
 結衣はいつも通り「はい」と頷いた。

 でも――いつも通りの中で、結衣の心だけが違っていた。

 “知らない名前”が、夫婦の間に置かれた。
 そしてそれは、まだ芽だ。

 けれど、芽は必ず伸びる。