あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

 その日は、朝から雨だった。

 傘を打つ音が、世界の輪郭をぼかしていく。
 結衣は駅前の雑踏を避けるように、裏道へ入った。
 家に帰るだけなのに、なぜかまっすぐ帰れない。

(今日は……息が苦しい)

 義母の言葉が、まだ耳に残っている。

――九条の妻は、“守られるだけ”では務まらないの。
――跡継ぎのこと、考えないと。

 そして、蓮の“俺がやる”が、あまりにも他人事みたいで。
 結衣は自分の胸を押さえた。

 雨の匂いが濃くなる。
 路地は狭く、街灯の光が濡れたアスファルトに滲む。

 そのとき――微かな鳴き声がした。

 にゃあ、と。
 かすれて、助けを求めるような。

 結衣は足を止め、声の方を見る。
 古い建物の軒下に、段ボール箱が置かれていた。
 そこから、濡れた小さな影が顔を出す。

 猫。

 胸が締めつけられる。
 結衣は思わず近づきかけて――止まった。

 段ボールの前に、すでに誰かがしゃがんでいたからだ。

 黒いスーツ。
 雨に濡れても形が崩れない背中。
 肩の線だけで、結衣は分かってしまう。

(……蓮さん?)

 信じられなくて、呼びかける声が出ない。
 結衣は傘の影から、ただ見てしまった。

 蓮は、段ボールの中へそっと手を差し入れる。
 指先が濡れた毛に触れたのだろう、ほんの僅かに眉が動いた。

 そして――。

「……こわくない」

 低い声。
 いつも聞く“副社長の声”と同じはずなのに、違った。

「大丈夫。……ほら、ゆっくり」

 柔らかい。
 温度がある。
 まるで、別人の声。

 結衣は息を止めた。

(そんな声……)

 蓮は猫へ話しかけながら、ポケットから小袋を取り出した。
 餌だ。
 慣れている動き。
 いつから? どうして?
 結衣の中で疑問が雪崩みたいに増える。

 猫が小さく鼻を鳴らし、蓮の指先に顔を寄せる。
 蓮は短く笑った。

 ――笑った。

 結衣の胸が、ぎゅっと潰れる。

(私、あの笑い方も知らない)

 蓮は家では笑わないわけじゃない。
 でも、あんな風にほどけた顔を見た覚えがない。

 結衣は、指先が冷たくなるのを感じた。
 雨のせいじゃない。

(私には、くれない声)

 その事実が、痛い。
 痛すぎて、涙が出そうになる。

 蓮が猫をそっと抱き上げた。
 濡れた毛を、自分のハンカチで包む。
 スーツが汚れるとか、気にしていない。

「……よし。行こう」

 行こう。
 それは“命令”じゃなく、“誘い”みたいだった。

 結衣の足が、一歩だけ前へ出た。
 呼びたい。
 「蓮さん」と呼べば、こちらを見てくれるはずなのに。

 でも、呼べない。

(だって、今の声は……私のものじゃない)

 結衣が立ち尽くしていると、路地の奥から傘が近づく音がした。
 女性の足音。軽いヒール。

「九条さん!」

 明るい声が雨に弾む。
 結衣の背中が、ひやりとした。

 現れたのは、白いレインコートの女性だった。
 小さな紙袋を抱え、息を切らせている。
 見知らぬ顔。けれど、蓮を呼ぶその声は、親しげだった。

「また来てくれたんですね。ルル、今日も頑張ったね」

 女性は猫を覗き込み、嬉しそうに笑う。
 猫――ルル。
 名前まで知ってる。

 蓮は猫を抱いたまま、女性へ頷いた。
 その頷きの温度が、結衣には“優しい”に見える。

「……濡れてた。放っておけない」

 短い言葉。
 でも、その言葉には“気持ち”が乗っている。

 女性が笑った。

「九条さん、本当に優しい。
 ……あ、タオルあります。こっち、来て」

 “こっち、来て”
 その一言で、二人が自然に同じ方向へ動く。
 呼吸が合っている。

 結衣は、傘の影で唇を噛んだ。

(あの人には、こんなに自然に……)

 自分の中に、黒いものが広がっていく。

 蓮がふと、視線をこちらへ向けた気がした。
 結衣の心臓が跳ねる。

 でも、それはただの錯覚だった。
 蓮の目は雨の向こうで、結衣ではなく、猫と女性の方に戻る。

 結衣は、足元が崩れるような感覚に襲われた。

(……私は、何を見てしまったの)

 涙が落ちる前に、結衣は踵を返した。
 走れない。雨で滑るし、見られたくない。

 ただ、静かに、路地を離れる。

 背後で、女性の声が聞こえた。

「九条さん、こっちです。早くルルを温めてあげないと」

 その声に、蓮が低く返す。

「……頼む」

 その“頼む”も、結衣が知らない温度だった。

 結衣は傘の中で、息を殺して泣いた。
 雨に紛れて、誰にも気づかれないように。

 ――夫は、私にだけ優しくない。

 その言葉が、胸の奥で決定的な形になっていく。