あなたの隣にいたのは、私じゃなかった


 土曜日の朝は、いつもより空気が薄い。

 九条家の本邸に向かう車の中、結衣は膝の上で手を重ねた。
 隣に座る蓮は、スマホを見ている。画面の光が頬を冷たく照らしているのに、表情は動かない。

 結衣は、何度も口を開きかけた。

(今日は、私の味方をしてくれるかな)
(せめて、私の隣に立ってくれるかな)

 でも言えない。
 言えないまま、車は門をくぐった。

 手入れの行き届いた庭。石畳。白い外壁。
 “家”というより、“格式”の塊みたいな場所だ。

 玄関に入ると、すぐに香が漂ってきた。
 奥から現れた義母――九条夫人は、淡い色の着物を着ている。微笑みは柔らかいのに、目は鋭い。

「いらっしゃい。結衣さん、久しぶりね」

「お義母さま……お招きいただき、ありがとうございます」

 結衣が頭を下げると、夫人は小さく頷いた。
 そして、蓮に目を向ける。

「蓮。あなた、顔色が悪いわ。食事はちゃんと取っているの?」

「……問題ない」

 短い返事。
 それでも、義母の声はどこか甘い。
 結衣が聞いたことのない温度がそこにある気がして、胸がきゅっと痛む。

(私にも、ああいう声を……)

 結衣はすぐに自分を叱った。
 比較してはいけない。
 でも、勝手に比べてしまう。

 応接間に通され、茶が出る。
 結衣は背筋を正し、用意した手土産を差し出した。

「些細なものですが……」

「まあ。気が利くこと」

 義母は微笑みながら受け取った。
 その指先は、綺麗なのに冷たい。

 少し雑談が続く。
 会社のこと、天気のこと、庭の梅のこと。
 結衣は必死に笑顔を保った。

 ――そして、その瞬間は来る。

 義母が湯呑みを置き、視線を結衣へ定めた。

「ところで、結衣さん」

「はい」

 呼吸が浅くなる。

「……体調はどう? 最近、変わったことはない?」

 柔らかい言い方。
 でも意味は一つだ。

 結衣は笑った。
 いつものように、上手に。

「はい。特に……」

「そう。なら、そろそろね」

 義母は扇子を少しだけ動かした。
 その音が、妙に大きく聞こえる。

「跡継ぎのこと、考えないと」

 言葉は軽い。
 でも、その軽さで人を潰せるのが、義母の怖さだ。

 結衣の指先が冷える。
 湯呑みを落としそうになって、慌てて持ち直す。

「……はい」

 返事しかできない。

 義母は続けた。優しい声で、さらに深く刺す。

「結婚はね、愛だけじゃ続かないの。
 妻の務めっていうものがあるのよ」

 結衣の喉が締まる。

 ――妻の務め。
 つまり、夜のこと。
 つまり、子どものこと。

(私たち、夫婦なのに)

 結衣は蓮を横目で見た。
 蓮は、湯呑みを見つめたまま黙っている。

(……何か言って)

 助けてほしい。
 笑って「母さん、まだ早い」と言ってほしい。
 結衣が望む言葉は簡単なのに、蓮は黙る。

 義母は、蓮の沈黙を“肯定”として受け取ったように微笑んだ。

「蓮も忙しいでしょうけど、家庭は大事よ。
 奥様がしっかり支えないとね」

 結衣は頷いた。
 頷くことで、自分を保つしかない。

「……努力いたします」

 言った瞬間、胸が痛んだ。
 努力でどうにもならないことを、努力しろと言われている。

 義母は、さらに静かに追い込む。

「ねえ結衣さん。
 夫が外で余計な噂を立てられたら――妻の恥になるのよ」

 結衣の心臓が止まりそうになった。

 余計な噂。
 それは、社内で囁かれていたものと同じ形をしていた。

(知ってるの……?)

 義母は、知らないふりをして知っている。
 それが、いちばん残酷だ。

 結衣は必死に笑った。

「……そのようなことがないよう、気をつけます」

 蓮がようやく顔を上げた。
 結衣はその瞳に期待してしまう。

 蓮は、義母に向けて低く言った。

「……母さん。結衣に言うな」

 結衣の胸が、少しだけ持ち上がる。

 でも――次の言葉が、刺した。

「……俺がやる」

 義母が目を細める。

「何を?」

 蓮は言わない。
 説明しない。
 いつも通り、必要なことを言葉にしない。

 義母は、勝ったように微笑んだ。

「そう。なら安心ね」

 結衣の胸の中で、希望が落ちる音がした。

 蓮は庇ってくれたのに。
 庇い方が不器用すぎて、結衣は逆に惨めになる。

(“俺がやる”って……私が何もできてないってこと?)
(私が妻として足りないから、あなたが“処理”するの?)

 結衣は笑顔のまま、指先をぎゅっと握った。
 爪が掌に食い込む。

 義母は静かに畳みかける。

「結衣さん。
 九条の妻はね、“守られるだけ”では務まらないの」

 その言葉が、結衣の心に深く刺さった。

 守られるだけ。
 ――私は、守られてすらいないのに。

 結衣は喉の奥で息を飲み込み、ただ頭を下げた。

「……はい」

 蓮の隣に座っているのに、結衣は一人だった。

 帰りの車。
 結衣は窓の外を見つめたまま、言葉を探した。

(さっきの“俺がやる”って、何?)
(私たち、夫婦なのに)

 でも、口にできない。

 蓮が低く言った。

「……気にするな」

 結衣は笑った。
 笑うしかなかった。

「はい」

 気にするな、で済むなら。
 最初から、こんなに苦しくない。

 車は静かに走り続ける。
 結衣の胸の中では、噂と沈黙が絡まり合って、ほどけなくなっていた。