あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

 翌日から、蓮の「遅い」は日常になった。

 結衣は夕方になると、自然に時計を見る。
 七時。八時。九時。
 通知は来ないまま、部屋の中だけが静かに冷えていく。

 ――待つのが妻の役目みたいに。

 テーブルの上には、夕食の皿。
 温め直せば済むはずなのに、結衣は温めない。
 “出来立て”で食べてほしいからじゃない。
 ただ、温めたら待つ理由がなくなる気がするからだ。

 鍵が回ったのは、十時を過ぎてからだった。

 結衣は立ち上がり、廊下へ向かう。
 笑顔を作る。胸の奥を隠すために。

「お帰りなさい」

 蓮はネクタイを緩めながら頷いた。

「……ただいま」

 それだけ。
 謝らない。
 遅くなった理由も言わない。

 結衣は言葉を探す。

(遅かったね)
(心配した)
(寂しかった)

 どれも言えない。
 言ったら重い妻になる気がして。

「……お疲れ様です。夕食、温めますね」

「いや、いい。……軽くでいい」

 “軽くでいい”という言い方が、結衣の胸を少しだけ切った。
 結衣の準備したものが、軽く扱われた気がして。

「分かりました」

 キッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。
 作り置きの小鉢が並ぶ。
 結衣は手を止めた。

 ――蓮のシャツの襟元に、白い毛が一本ついている。

 猫の毛。
 そう思いたい。
 でも、結衣の頭の中には別の言葉が刺さる。

(本命は別)

 結衣は息を飲んで、目を逸らした。
 見なかったことにしよう。
 でも見てしまった。
 見た瞬間に、心が勝手に結論を作っていく。

「……結衣」

 蓮の声が背中から落ちてくる。
 結衣は振り向いた。

 蓮はダイニングの椅子に座ったまま、ネクタイを外し、手首を揉んでいる。
 疲れているのが分かる。
 だからこそ、結衣は何も聞けなくなる。

「はい」

 蓮は一度だけ、結衣の手元――箸を取る指を見た。

「……昨日、眠れたか」

 その問いは優しい。
 優しいのに、的がずれている。
 結衣が欲しいのは、睡眠の確認じゃない。

「はい……大丈夫です」

 嘘だった。
 眠れなかった。
 噂の声が、蓮の背中が、扉の閉まる音が、ずっと頭に残っていた。

 結衣が小鉢を並べていると、蓮のスマホが震えた。
 画面が一瞬、光る。

 通知の上部だけが見えた。

『望月:明日の資料、修正しました』

 胸が、ひゅっと縮む。

 望月。
 夜でも当然のように連絡を取る関係。
 それを“仕事だから”と片付けられてしまう距離。

 結衣は平然を装って、最後の皿を置いた。

「……いただきます」

 蓮は言い、淡々と食べ始めた。
 結衣も箸を取る。
 でも味がしない。

 沈黙が落ちる。

 結衣は、ひとつだけ言ってみようと思った。
 噂のことじゃない。
 望月のことでもない。
 もっと安全な言葉。

「……今日、会社に伺ったんです」

 蓮の箸が止まった。

「……何しに」

 その言い方。
 責めていないのに、責められたみたいに聞こえた。

「えっと……昨日、クッキーを。お疲れかなと思って」

 蓮の眉がほんの少しだけ動く。
 驚いたように。

「……そうか」

 それだけで、次がない。
 受け取ったのか。食べたのか。嬉しかったのか。
 何も言わない。

 結衣は笑って頷いた。
 胸が痛いのに、笑ってしまう。

「望月さんに預けました」

 その名前を出した瞬間、空気が変わった。
 ほんのわずかに。
 蓮の目が、結衣から逸れた。

「……そうか」

 同じ言葉なのに、温度が落ちる。

(やっぱり)

 結衣の心が、勝手に決めつける。

 結衣は箸を置いてしまった。
 手が震えるから。

「……蓮さん」

 蓮が顔を上げる。
 結衣はその目を見て、言葉を飲み込む。

(望月さんのこと、好きなの?)
(私のことは、どう思ってる?)

 聞けない。
 聞いたら終わる気がする。

「……なんでもありません。すみません」

 謝ってしまう。
 また。
 言えない自分が、どんどん嫌になる。

 蓮は少しだけ眉を寄せた。

「……謝るな」

 結衣は笑った。

「癖なんです」

 蓮が立ち上がる。

「……明日も早い。先に寝ろ」

 また、その言葉。
 “いっしょに”がない。

 結衣は頷いた。
 頷くしかない。

「はい。おやすみなさい」

「ああ」

 蓮は廊下へ向かい、途中で一度だけ振り返った。
 何か言いかけたように見える。
 でも、言葉は落ちてこなかった。

 扉が閉まる音がする。

 結衣はダイニングの椅子に座ったまま、テーブルを見つめた。
 二人分の食器。
 夫婦の形。
 でも、そこに“会話”も“熱”もない。

 スマホが、また震えた。
 結衣のではない。蓮の部屋の方向から。

(望月さん、かな)

 そう思ってしまった自分が、苦しい。

 結衣はそっと立ち上がり、シンクに皿を運んだ。
 水を流す音が、やけに大きく響く。

(私……聞けないまま、壊れていく)

 言葉不足が、沈黙が、夜の帰宅が、
 少しずつ結衣の心を削っていった。