あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

 春の匂いがする朝だった。

 キッチンの窓を少し開けると、風がカーテンをふわりと揺らす。
 結衣はフライパンを火にかけながら、背中越しに足音を聞いた。

 ――以前なら、足音だけで胸が痛んだ。
 今は、胸が温かくなる。

「結衣」

 呼ばれて、結衣は振り向く。
 蓮がネクタイを結びながら立っていた。
 仕事の顔なのに、目だけが柔らかい。

「はい」

 蓮はほんの少しだけ眉を寄せる。
 それは不機嫌ではなく、“確認”の表情だ。

「……昨夜、眠れたか」

 結衣は笑う。

「眠れました。あなたが、ちゃんと話してくれたから」

 蓮は視線を逸らして、短く息を吐いた。

「……そうか」

 その返事は相変わらず不器用だ。
 でも、そこに温度がある。

 結衣が皿を並べると、蓮が自然にテーブルへ手を伸ばし、箸を揃えた。
 夫婦の生活は、いつの間にか“並ぶ”ものになっていた。

 食後、蓮のスマホが震えた。
 画面に表示されたのは、神崎からの短い通知。

『本日、広報誌の差し替え完了。社内掲示も更新済みです』

 結衣はその文字を見ても、もう胸が痛まなかった。
 代わりに、蓮の顔を見る。

 蓮は結衣に気づき、先に言った。

「……今日は、昼に少し時間を取る。帰りに寄る場所がある」

「寄る場所?」

 蓮は一拍置いて、照れたように言う。

「……ルルに会いに行く」

 結衣は笑った。
 あの日の“傷”が、今は“思い出”に変わっている。

「一緒に?」

「ああ」

 短い答え。
 でも「一緒に」があるだけで、胸が満たされる。



 昼過ぎ、二人は保護猫シェルターを訪れた。

 小春が玄関で出迎え、目を丸くする。

「奥様! ……あ、結衣さん。お久しぶりです」

「お久しぶりです」

 結衣が頭を下げると、小春はほっと息を吐いた。

「よかった……本当に」

 言葉の温度が、あの頃と違って聞こえる。
 結衣は小さく微笑んだ。

 奥へ進むと、ルルの鳴き声がした。
 結衣がしゃがむより先に、蓮がしゃがむ。

「……よし。来たぞ」

 低くて、柔らかい声。
 猫に向ける“あの声”。

 ルルが嬉しそうに鳴き、蓮の指先に鼻を寄せる。
 結衣はその光景を見ながら、胸が痛くならない自分に驚いた。

 小春が笑う。

「九条さん、ほんと変わりましたよね」

 蓮は顔を上げないまま、短く言う。

「……変わったのは、遅かった自覚だ」

 結衣は息を飲んだ。
 その言葉が、まっすぐ胸に届く。

 蓮はルルを撫で終えると、立ち上がって結衣の方へ向いた。

「……結衣」

 呼び方が、以前より少しだけやわらかい。

 結衣が顔を上げると、蓮は照れたように目を逸らし、すぐに戻す。

「……さっきの声、また欲しいか」

 結衣は一瞬固まって、次の瞬間、笑ってしまった。

「え、なにそれ」

 蓮は耳が赤い。

「……練習中だと言った」

 結衣は笑いながら、でも真剣に頷く。

「欲しいです」

 すると蓮は、結衣の前でほんの少しだけ声を落とした。
 ルルに向ける声より、もっと慎重で、もっと大事にする声。

「……大丈夫」
「……怖いなら、言え」
「……俺が、隣にいる」

 結衣の胸が熱くなる。
 涙が出そうで、でも泣かない。

「……うん」

 結衣がそう言うと、蓮は結衣の指先を握った。
 人前なのに、離さない。

 小春がわざとらしく咳払いをして、笑った。

「じゃあ、私は向こうでお仕事してますねー!」

 小春が去ると、二人の間に静けさが落ちた。
 でもそれはもう、怖い沈黙ではない。

 蓮がぽつりと言う。

「……望月のこと」

 結衣の胸が一瞬だけ緊張する。
 蓮は続けた。

「“支えます”と言ったのは、俺に向けた言葉だ」
「……お前の席を奪う権利じゃない」

 結衣は頷いた。

「うん」

 蓮は真っ直ぐ結衣を見る。

「俺の隣は、最初からお前だった」
「……空けたのは俺だ。黙ったから」

 結衣は、指輪のある左手を見た。
 光が小さく揺れている。

「もう黙らない?」

 蓮は短く、でもはっきり言う。

「黙らない」

 結衣は笑った。

「じゃあ私も、黙らない」

 蓮の口元が、少しだけ緩む。

「……それでいい」

 結衣は蓮の袖を掴んだ。
 以前の結衣なら、そんなことできなかった。

「帰りに、コンビニ寄っていいですか」

「……甘いものか」

「当たり。あなた、甘党だもん」

 蓮はため息みたいに息を吐いて、結衣の頭を軽く撫でた。
 優しいのに、逃げない触れ方だった。

「……好きにしろ」

 結衣は笑った。

「うん。好きにする」

 ルルが「にゃ」と鳴く。
 まるで祝福みたいに。

 結衣は蓮の手を握り直す。
 今度は、結衣が離さない番だ。

 外へ出ると、春の風が二人の間を通り抜けた。
 蓮が結衣の耳元に、低く言う。

「……結衣」

「はい」

 蓮の声が、ほんの少し甘くなる。

「……今日も、帰ったら抱きしめる」

 結衣の頬が熱くなる。

「……はい」

 その返事は、もう“事務的”じゃない。
 恋をしている妻の声だった。

 ――夫の声は、猫にだけじゃない。
 今は、私だけのもの。

 結衣はそう思って、指輪の光を確かめるように手を握った。