あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

 エレベーターを降りた瞬間、結衣は自分が“場違い”だったことを思い知らされた。

 フロアの空気は、明るいのに固い。
 笑い声がしても、どこか計算されている。
 社員証を首から下げた女性たちが、コピー用紙の束を抱えて歩いていく。その中に、自分は混じれない。

(私は……“奥様”だから)

 それは特別で、同時に孤独な立場だった。

 結衣は廊下を進み、給湯室の前で足を止めた。
 お茶を一つ、買って帰ろう。
 そう思っただけだった。

 ――その中から、声が聞こえた。

「ねえ、昨日見た? 副社長、また白石さんと一緒だったよね」

 結衣の指先が、カップの自販機に触れたまま固まる。

「うん。あの距離、普通じゃない。奥様いるのにさ」

 笑い声。
 軽い。
 軽いのに、胸の奥に刺さる。

(白石さん……広報の)

 結衣は社内資料で見た顔を思い出す。
 華やかな笑顔。綺麗な巻き髪。目を引く赤い口紅。
 蓮の隣に立っても“映える”人。

 カップが落ちそうになって、結衣は慌てて支えた。
 音が、少し大きくなった。

 給湯室の中の会話が、一瞬止まる。

 結衣は息を止めてしまう。
 扉の向こうにいる人が出てきたら、どうしよう。
 でも、扉は開かなかった。

「……てかさ、奥様って実際どうなの?」

 別の声。少し意地悪い色が混ざる。

「形だけじゃない? あの家、政略結婚でしょ」

「うわ、言うね」

「だって副社長、奥様の話、まったくしないじゃん。家の話も、指輪の話も」

 結衣の喉が、きゅっと狭くなる。

(蓮さん、私の話……しないんだ)

 当たり前だ。会社で妻の話をする人なんて、少ない。
 それでも、今の一言は“説明”ではなく“判定”だった。

「本命は、望月さんじゃないの?」

 その名前が出た瞬間、結衣の背中がひやりとした。

「え、秘書の? あり得る。あの二人、息ぴったりだもん」

「奥様より一緒にいる時間、長いでしょ。そりゃ情も移るって」

 笑い声が、また弾む。
 結衣の耳には、笑い声の形が“刃”に聞こえた。

(やめて)

 心の中で言っても、止まらない。
 噂は、火に油を注いで、すぐに大きくなる。

「でもさ、奥様って可哀想じゃない? 家では一人でしょ」

「可哀想っていうか、仕方ないじゃん。選ばれたのが奥様じゃなかっただけ」

 ――選ばれたのが、私じゃなかった。

 その言葉が、結衣の胸の中に落ちて、鈍い音を立てた。
 息がうまく吸えない。

 結衣は、手の中のカップを握りしめる。
 熱さがわからないほど、指先が冷たかった。

 そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
 結衣は反射的に身を引き、壁に寄る。

 通り過ぎたのは、紙袋を抱えた女性社員だった。
 彼女は結衣を一度見て、すぐ視線を落とした。
 ――気づいたのかもしれない。気づいて、何も言わなかったのかもしれない。

 結衣は、笑おうとした。
 でも、唇が動かない。

 結衣はそのまま踵を返し、廊下を歩き出した。
 背中に、見えない視線が刺さる。

 エレベーターの前で、鏡に映った自分の目が赤いことに気づく。
 泣いてない。泣いてないのに、もう泣いているみたいだ。

(私は……副社長の妻なのに)

 肩書きだけが重い。
 中身が空っぽのまま、箱に入れられたみたいだ。

 スマホが震えた。
 画面に表示されたのは、蓮からの短い通知。

『今夜、遅くなる』

 それだけ。
 理由も、謝罪も、絵文字もない。
 結衣は画面を見つめたまま、指を動かせなかった。

(……遅い理由、聞いたらだめ?)

 結衣は“妻”の自分を握りしめるように、スマホを閉じた。
 そして、誰にも見られないように、息を吐いた。

 噂の芽は、もう芽じゃない。
 胸の中で、根を張り始めていた。