あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

 シェルターの奥は、静かだった。

 ルルの小さな体温が、結衣の腕の中で呼吸している。
 その温かさがなければ、結衣はきっと立っていられなかった。

 結衣は涙をこらえたまま、蓮を見た。

「……望月さんに“副社長は私が支えます”って言われた時」
「私、全部が決まった気がしたんです」

 声が震える。
 でも、止めなかった。

「あなたの隣にいるのは、私じゃないって」

 蓮は一瞬、目を閉じた。
 息を吸って、吐く。
 逃げるためじゃない。言葉を選ぶための呼吸だった。

「……結衣」

 名前を呼ぶ声が、前より少しだけ柔らかい。

 蓮は、はっきり言った。

「望月の言葉は、間違ってる」

 結衣の胸が跳ねる。
 でも、疑う癖が先に立つ。

「……でも、望月さんは、あなたを支えてる」

「支えてるのは仕事だ」

 蓮の言葉は短い。
 でも今日は、そこで終わらなかった。

「……俺が支えてほしいのは、お前だ」

 結衣の喉が詰まる。

(今さら)

 そう言いそうになって、飲み込む。
 今さらでも、聞きたかった。
 ずっと。

 蓮は続ける。
 順番に、逃げずに。

「結衣が望月に電話した時」
「……俺は気づけなかった」
「気づけなかったことが、もう遅かった」

 結衣は唇を噛んだ。
 涙が溜まって視界が揺れる。

「私、あなたに言ったのに」
「望月さんに言われたって、伝えたのに」
「……あなたは、否定しなかった」

 蓮の指先が、わずかに震えた。

「……否定できなかったんじゃない」

 蓮は結衣を見る。
 目が逸れない。
 その視線が、今までになく真っ直ぐだった。

「俺は、言葉を選べなかった」

 結衣は小さく笑いそうになって、泣きそうになった。

「選べなかった……?」

 蓮は頷く。

「結衣に何か言った瞬間」
「……壊れそうで、怖かった」

 結衣の胸が、ぎゅっとなる。

(壊れたのは、私だよ)

 でも蓮の“怖い”も、本物に見えた。
 それが余計に、切ない。

 蓮は一歩だけ近づき、声を落とした。

「猫には、拒まれない」

 結衣の指が、ルルの毛を撫でる手を止める。

 蓮は続けた。

「猫は、俺が黙ってても離れない」
「俺が不器用でも、傷つかない」
「……だから、声が出る」

 結衣の喉が痛む。
 その理屈が、分かってしまうのが悔しい。

 蓮は、やっと核心を言った。

「結衣には……好きすぎて、固くなる」

 結衣の息が止まった。

 好きすぎて。
 固くなる。

 結衣は笑ってしまいそうになった。
 でも笑えない。
 泣きたい。

「……そんなの、分かるわけないじゃないですか」

 声が震えて、少しだけ怒りが混ざった。
 怒りじゃない。悲しみの裏返し。

 蓮は頷いた。

「分からないのに、分かれと言ったのは俺だ」
「……不安にさせたのは俺だ」

 蓮は視線を落とし、苦しそうに言った。

「会食も、送迎も、隣に立った写真も」
「全部、“仕事”だ」
「でも結衣にそう見えるのは、俺が説明しなかったせいだ」

 結衣の涙が、ついに落ちた。

 ルルの背に落ちないように、結衣は顔をそむける。
 泣く姿を見せたくない。
 でももう、無理だった。

 蓮が低く言う。

「……結衣」

 その声が、少しだけ、あの“猫の声”に近づいている気がした。
 それだけで胸が痛い。

 結衣は掠れた声で言った。

「私、望月さんの言葉が……怖かった」
「“副社長は私が支えます”って」
「……私、いらないって言われた気がして」

 蓮は即答した。

「いらないわけがない」

 言い切った。
 今までで一番強い否定だった。

 結衣は目を潤ませたまま、蓮を見る。

「……じゃあ、私は」

 喉が震える。
 でも、聞きたい。
 今度は逃げないで聞きたい。

「私は、あなたの何ですか」

 蓮は、もう沈黙しなかった。

 一拍だけ置いて、結衣の目をまっすぐ見た。

「……妻だ」

 たった二文字。
 それだけで、結衣の胸の奥がほどけた。

 蓮は続ける。
 言葉を重ねる。
 逃げない。

「俺の隣は、お前だ」
「望月じゃない」
「白石でもない」
「小春でもない」

 結衣の唇が震える。
 嬉しいのに、悔しい。

「……遅いです」

 結衣の声は泣き声だった。

 蓮の表情が、痛そうに歪む。

「……分かってる」

 そして、蓮はほんの少しだけ声を柔らかくした。
 不器用に、でも必死に。

「……もう二度と、黙らない」

 結衣の胸が熱くなる。
 ルルが小さく鳴いた。
 その鳴き声が、二人の間の空気を少しだけ解いた。

 結衣は泣きながら笑った。

「……猫に言うみたいに、言ってください」

 蓮が、短く息を吐いた。
 照れを隠すみたいに。

「……練習する」

 その言葉が、可笑しくて、苦しくて、愛しかった。