結衣は、ここなら息ができた。
保護猫シェルターの奥。
小さな窓から入る光。
消毒液と、猫の匂い。
そして、静かな鳴き声。
誰も“副社長夫人”として見ない。
誰も“妻の役目”を求めない。
猫はただ、目を細めて寄ってくるだけだ。
結衣はケージの前にしゃがみ、そっと手を差し出した。
ルルが鼻先を寄せ、指を確かめるように触れる。
「……こんにちは」
声が、少しだけ柔らかくなる。
結衣は自分でそれに気づいて、胸が痛んだ。
(私も、ここでは声が変わる)
それなのに、蓮は――私の前では変わらなかった。
小春が奥から出てきて、結衣に微笑んだ。
「結衣さん、今日も来てくれたんですね」
「……すみません。迷惑ですよね」
「迷惑じゃないです。ルル、結衣さんのこと好きですから」
その言葉だけで、結衣の胸が少しだけ温かくなる。
好き。
簡単に言ってくれる。
簡単に、救ってくれる。
結衣は目を伏せて言った。
「……私、ここでしか呼吸できなくて」
小春の表情が少しだけ曇る。
でも彼女は深く聞かない。
“聞かない優しさ”が、今の結衣には救いだった。
結衣はルルを抱き上げた。
小さな体温が、胸に乗る。
その瞬間――入口のドアが開く音がした。
結衣は肩を震わせた。
ここは自分の避難場所。
ここまで追って来る人はいないはずだ、と信じていた。
小春が顔を上げる。
「……九条さん?」
その名前が出た瞬間、結衣の世界が止まった。
足音が近づく。
スーツの裾が視界の端に入る。
結衣は抱いているルルを下ろせなくなった。
手が固まる。
低い声が落ちてくる。
「……結衣」
呼ばれた名前が、胸を刺す。
愛しいのに、痛い。
結衣は顔を上げなかった。
上げたら、泣いてしまうから。
小春が気まずそうに一歩下がり、軽く頭を下げた。
「……奥で待ってますね。ルルは……抱っこしたままで大丈夫ですよ」
小春が離れると、空気が一気に重くなる。
結衣はルルの背を撫でながら、震える息を隠した。
「……ここ、どうして……」
声が掠れる。
蓮は少しだけ沈黙し、低く言った。
「……探した」
探した。
その二文字は嬉しいはずなのに、結衣の胸は痛い。
(探すなら、もっと前に)
(私が“まだ妻”だった時に)
結衣は唇を噛んだ。
ルルの体温が、逆に泣きたさを増幅させる。
蓮が一歩近づく気配がする。
結衣は反射で身を引きそうになって、必死に耐えた。
沈黙が落ちる。
結衣は、先に言わなければと思った。
蓮が言葉を選んでいる間に、逃げたくなるから。
結衣は顔を上げずに言った。
「……私、望月さんに言われたんです」
蓮の息が止まるのが分かった。
「『副社長は、私が支えます』って」
結衣は続けた。
言うほど胸が痛む。
でも、言わないと終われない。
「それをあなたに言っても……あなたは否定しなかった」
「……だから、私は“妻の席”が空いてるんだって思ったんです」
ルルが小さく鳴いた。
結衣はその鳴き声に救われながら、最後の言葉を吐いた。
「……私が邪魔なら、静かに消えるしかないって」
蓮の声が、少しだけ震えた。
「……邪魔じゃない」
結衣の胸がきゅっと縮む。
でも、遅い。
遅すぎて、信じられない。
結衣はやっと顔を上げた。
蓮の瞳が、真剣に結衣を見ている。
そこに焦りがある。
結衣は、痛みの核心を突き刺すように言った。
「……その声」
蓮が僅かに眉を寄せる。
結衣はルルを抱いたまま、震える声で続けた。
「その声、私にはくれなかった」
空気が止まる。
蓮の口が少し開いて、閉じる。
言葉が詰まっている顔。
それでも、逃げない顔。
結衣は、笑いそうになって堪えた。
泣きたくて仕方ない。
「猫には優しい声が出るのに」
「私には……いつも硬くて、短くて、命令みたいで」
「……私、何度も“嫌われてる”って思いました」
蓮の喉が動く。
「……違う」
結衣は首を振った。
「違うなら、どうして言ってくれなかったんですか」
結衣の声が揺れる。
怒りじゃない。
悲しみだ。
蓮は息を吐いて、ようやく言った。
「……俺は、言葉が下手だ」
結衣は小さく笑った。
でも、目が熱い。
「下手、じゃ済まないですよ」
結衣はルルの顔を覗き込む。
ルルは無防備に目を細めている。
「この子は、黙ってても離れない」
「でも私は、人です」
結衣は蓮を見た。
「……私は、黙られたら、ひとりで答えを作ってしまう」
蓮の瞳が揺れた。
神崎と小春の言葉が、蓮の中でも響いているはずだ。
結衣は最後に、もう一つだけ言った。
「私、望月さんに“支えます”って言われた瞬間、
あなたの隣にいるのは私じゃないって……決まった気がしたんです」
蓮は一歩だけ近づいた。
結衣は逃げなかった。
逃げる元気も、もうなかった。
「……結衣」
蓮の声が、少しだけ柔らかくなる。
でも、まだ“猫の声”ほどじゃない。
結衣はそれを聞いて、胸が痛くて、少しだけ救われた。
保護猫シェルターの奥。
小さな窓から入る光。
消毒液と、猫の匂い。
そして、静かな鳴き声。
誰も“副社長夫人”として見ない。
誰も“妻の役目”を求めない。
猫はただ、目を細めて寄ってくるだけだ。
結衣はケージの前にしゃがみ、そっと手を差し出した。
ルルが鼻先を寄せ、指を確かめるように触れる。
「……こんにちは」
声が、少しだけ柔らかくなる。
結衣は自分でそれに気づいて、胸が痛んだ。
(私も、ここでは声が変わる)
それなのに、蓮は――私の前では変わらなかった。
小春が奥から出てきて、結衣に微笑んだ。
「結衣さん、今日も来てくれたんですね」
「……すみません。迷惑ですよね」
「迷惑じゃないです。ルル、結衣さんのこと好きですから」
その言葉だけで、結衣の胸が少しだけ温かくなる。
好き。
簡単に言ってくれる。
簡単に、救ってくれる。
結衣は目を伏せて言った。
「……私、ここでしか呼吸できなくて」
小春の表情が少しだけ曇る。
でも彼女は深く聞かない。
“聞かない優しさ”が、今の結衣には救いだった。
結衣はルルを抱き上げた。
小さな体温が、胸に乗る。
その瞬間――入口のドアが開く音がした。
結衣は肩を震わせた。
ここは自分の避難場所。
ここまで追って来る人はいないはずだ、と信じていた。
小春が顔を上げる。
「……九条さん?」
その名前が出た瞬間、結衣の世界が止まった。
足音が近づく。
スーツの裾が視界の端に入る。
結衣は抱いているルルを下ろせなくなった。
手が固まる。
低い声が落ちてくる。
「……結衣」
呼ばれた名前が、胸を刺す。
愛しいのに、痛い。
結衣は顔を上げなかった。
上げたら、泣いてしまうから。
小春が気まずそうに一歩下がり、軽く頭を下げた。
「……奥で待ってますね。ルルは……抱っこしたままで大丈夫ですよ」
小春が離れると、空気が一気に重くなる。
結衣はルルの背を撫でながら、震える息を隠した。
「……ここ、どうして……」
声が掠れる。
蓮は少しだけ沈黙し、低く言った。
「……探した」
探した。
その二文字は嬉しいはずなのに、結衣の胸は痛い。
(探すなら、もっと前に)
(私が“まだ妻”だった時に)
結衣は唇を噛んだ。
ルルの体温が、逆に泣きたさを増幅させる。
蓮が一歩近づく気配がする。
結衣は反射で身を引きそうになって、必死に耐えた。
沈黙が落ちる。
結衣は、先に言わなければと思った。
蓮が言葉を選んでいる間に、逃げたくなるから。
結衣は顔を上げずに言った。
「……私、望月さんに言われたんです」
蓮の息が止まるのが分かった。
「『副社長は、私が支えます』って」
結衣は続けた。
言うほど胸が痛む。
でも、言わないと終われない。
「それをあなたに言っても……あなたは否定しなかった」
「……だから、私は“妻の席”が空いてるんだって思ったんです」
ルルが小さく鳴いた。
結衣はその鳴き声に救われながら、最後の言葉を吐いた。
「……私が邪魔なら、静かに消えるしかないって」
蓮の声が、少しだけ震えた。
「……邪魔じゃない」
結衣の胸がきゅっと縮む。
でも、遅い。
遅すぎて、信じられない。
結衣はやっと顔を上げた。
蓮の瞳が、真剣に結衣を見ている。
そこに焦りがある。
結衣は、痛みの核心を突き刺すように言った。
「……その声」
蓮が僅かに眉を寄せる。
結衣はルルを抱いたまま、震える声で続けた。
「その声、私にはくれなかった」
空気が止まる。
蓮の口が少し開いて、閉じる。
言葉が詰まっている顔。
それでも、逃げない顔。
結衣は、笑いそうになって堪えた。
泣きたくて仕方ない。
「猫には優しい声が出るのに」
「私には……いつも硬くて、短くて、命令みたいで」
「……私、何度も“嫌われてる”って思いました」
蓮の喉が動く。
「……違う」
結衣は首を振った。
「違うなら、どうして言ってくれなかったんですか」
結衣の声が揺れる。
怒りじゃない。
悲しみだ。
蓮は息を吐いて、ようやく言った。
「……俺は、言葉が下手だ」
結衣は小さく笑った。
でも、目が熱い。
「下手、じゃ済まないですよ」
結衣はルルの顔を覗き込む。
ルルは無防備に目を細めている。
「この子は、黙ってても離れない」
「でも私は、人です」
結衣は蓮を見た。
「……私は、黙られたら、ひとりで答えを作ってしまう」
蓮の瞳が揺れた。
神崎と小春の言葉が、蓮の中でも響いているはずだ。
結衣は最後に、もう一つだけ言った。
「私、望月さんに“支えます”って言われた瞬間、
あなたの隣にいるのは私じゃないって……決まった気がしたんです」
蓮は一歩だけ近づいた。
結衣は逃げなかった。
逃げる元気も、もうなかった。
「……結衣」
蓮の声が、少しだけ柔らかくなる。
でも、まだ“猫の声”ほどじゃない。
結衣はそれを聞いて、胸が痛くて、少しだけ救われた。

