あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

蓮は会社に戻るなり、秘書室へ向かった。

 歩きながら、手紙の一文が何度も頭を殴る。

『望月さんに「副社長は私が支えます」と言われた時、
私は“妻の席”が最初から空いていたのだと思ってしまいました』

 結衣は、それを蓮に伝えた。
 伝えたのに、蓮は答えられなかった。
 その沈黙が、結衣を追い出した。

 蓮は秘書室のドアを開けた。
 いつもならノックをする。
 でも今日は、できなかった。

「望月」

 呼び捨ての声に、室内の空気が一瞬固まる。
 望月玲香は顔を上げ、完璧な微笑を作った。

「副社長。お呼びでしょうか」

 蓮は机の前まで歩き、低く言った。

「……結衣に、何を言った」

 望月の表情が、僅かに揺れる。
 揺れたのは一瞬で、すぐに整う。

「奥様と、何かございましたか」

 蓮の指先が強張った。

「答えろ」

 望月は息を整え、静かに言った。

「奥様から、家政婦の件で問い合わせがございましたので」
「状況を説明し、奥様には無理をなさらないようにと」

 蓮は一歩踏み込む。

「“副社長は私が支えます”と言ったな」

 望月の瞳が僅かに揺れた。
 否定しない。
 それが答えだった。

「……副社長が多忙でいらっしゃるのは事実です」
「私の職務として、支えるのは当然かと」

 当然。
 その言葉が、結衣の胸をどれだけ裂いたか――望月は知らないふりをする。

 蓮は低く、噛みしめるように言った。

「お前の職務は“俺の仕事”だ」
「……俺の妻の席に、口を出すな」

 望月の微笑が、ほんの少しだけ硬くなる。

「副社長、奥様が傷つかれているなら――」

「傷つかせたのは俺だ」

 蓮の声は短く、重かった。

「だが、お前が言った言葉が、最後の一押しになった」

 望月は一瞬黙り、視線を伏せる。
 その沈黙が、認めた形だった。

 蓮は続けた。

「今後、結衣に直接連絡を取るな」
「必要な連絡は神崎を通せ」

 望月の指が、机の端を軽く押さえた。
 爪が白くなるほど。

「……承知いたしました」

 蓮は背を向けた。
 ここで勝ち負けをしたいわけじゃない。
 ただ、今は一秒でも早く結衣に行かなければならない。

 秘書室を出ると、神崎が待っていた。
 表情が読めない顔のまま、蓮を見上げる。

「副社長。奥様の居場所、候補が二つあります」

「言え」

「一つは、ご友人の朝霧真琴さん。もう一つは、奥様が時々立ち寄っていた花屋です」

 蓮の胸が強く跳ねた。
 “時々立ち寄っていた”。
 結衣はここで、静かに息をしていたのかもしれない。

「……どっちだ」

 神崎は首を振る。

「今は確証がありません。ただ、花屋の方が可能性が高い」
「奥様、そこだと“誰にも知られず”いられます」

 蓮は頷いた。

「……車を出せ」

 神崎が頷き、スマホを取り出す。
 蓮は歩きながら、結衣の手紙の文を思い出す。

――“妻の席”が最初から空いていた。

 違う。
 空けたのは俺だ。
 言葉を渡さず、沈黙で席をどかしたのは俺だ。

 車に乗り込む直前、蓮は神崎に低く言った。

「……結衣に会ったら、言い訳はしない」

 神崎が短く頷く。

「順番に、ですね」

「そうだ」

 蓮は窓の外の街を見た。
 いつもなら、仕事の数字と段取りしか見えないはずの景色が、今日は違う。

(結衣が泣かないように、俺が言葉を言う)

 派手なサプライズも、ドラマみたいな土下座も、今はいらない。
 必要なのは、たった一つ。

 ――「君が妻だ」と、言うこと。

 車は動き出す。
 蓮はスマホを握り、結衣の番号を押した。

 今度は切らせない。

 呼び出し音が鳴る。

(出てくれ)

 祈るみたいに待つ。
 自分が、こんな気持ちになるなんて知らなかった。

 呼び出し音の向こうで、世界が静かに揺れていた。