あなたの隣にいたのは、私じゃなかった


 結衣のいない家は、音がしなかった。

 蓮は玄関に立ったまま、テーブルの上を見つめていた。
 指輪の入ったケース。
 未提出の離婚届。
 そして、短い手紙。

 手紙を開いた瞬間、喉の奥が詰まった。

『望月さんに「副社長は私が支えます」と言われた時、
私は“妻の席”が最初から空いていたのだと思ってしまいました。
あなたに聞いても、答えがもらえなかったから。』

 蓮の指先が、紙を強く掴んだ。
 息が荒くなるのを、初めて自覚した。

(……望月が、そんなことを)

 怒りが湧く。
 でもそれ以上に、胸が痛む。

(結衣は、それを俺に言った。俺は……)

 ――答えられなかった。

 自分の沈黙が、結衣を追い出した。
 その事実が、胃の奥を殴る。

 蓮はスマホを握り、結衣の番号を押す。
 呼び出し音が鳴って、切れた。
 また押す。
 また切れる。

 息が詰まる。

(どこだ……)

 探し方が分からない。
 問い詰める言葉も、追いかける言葉も。
 いつだって蓮は“正しい言葉”しか使えない。
 夫婦のための言葉を、知らない。

 そのまま蓮は出社した。
 仕事だけは、止められない。
 止められないというより――止めたら崩れる。

 午前の会議が終わり、秘書室長の神崎が蓮の後を追ってきた。
 いつもより歩幅が早い。

「副社長」

 蓮は振り向く。

「……何だ」

 神崎は周囲を見回し、誰もいない廊下の角へ蓮を誘導した。
 珍しく、表情が硬い。

「奥様から連絡がありましたか」

 その一言で、蓮の胸が強く痛んだ。

「……ない」

「そうですか」

 神崎は息を吐いた。
 ため息に、怒りと諦めが混ざっている。

「副社長。今、どれだけ社内が騒いでいるか、ご存じですか」

 蓮は眉を寄せる。

「……噂か」

「噂です。ですが、放置すれば“事実”になります」

 神崎は言葉を切った。
 そして、蓮の目をまっすぐ見た。

「奥様は、ずっと孤独でしたよ」

 蓮の喉が、ぐっと詰まる。

「……」

 神崎は続ける。
 容赦がない。
 でもそれは、蓮を殴るためじゃなく、現実を見せるための言葉だった。

「副社長が黙るほど、奥様は誤解されます」
「副社長が説明しないほど、奥様は一人で答えを作ります」
「そして、その答えはいつも――奥様を傷つける形になります」

 蓮の拳が、わずかに握られた。

「……俺は、守ってた」

 言い訳のように聞こえた自分の声に、蓮は歯を食いしばる。

 神崎は首を振る。

「守っているつもりで、奥様を“外側”に置いていました」
「奥様は“妻”なのに、副社長の隣に立つ権利すら持てなかった」

 蓮の胸に、手紙の文が刺さり直す。

――望月さんに「副社長は私が支えます」と言われた時…

 蓮は低く言った。

「……望月が、そんなことを言ったのか」

 神崎は一瞬、目を細めた。

「はい。奥様が望月に問い合わせた際、そう返されたと」

 蓮の中で、何かが切れた。

 怒りではない。
 遅すぎた自覚。
 “自分が作ってしまった隙”への痛み。

 神崎は畳みかける。

「副社長、奥様はあなたを責めたかったわけじゃない」
「ただ、あなたの口から“奥様の席”を確認したかったんです」
「それなのに副社長は、答えなかった」

 蓮は息を吐いた。
 苦しくて、吐くしかなかった。

「……俺は、どう言えばよかった」

 神崎は即答した。

「簡単です」
「『君が妻だ』と言えばよかった」
「『不安にさせたのは俺だ』と言えばよかった」
「『俺の隣は君だ』と言えばよかった」

 言葉にされるほど、蓮は自分の愚かさを理解する。
 言うだけでよかった。
 言えなかった。
 言う術を知らなかった。

 神崎は最後に、静かに言った。

「副社長。奥様を探してください」
「探して、説明してください」
「……取り返したいなら」

 蓮は、しばらく動けなかった。
 喉の奥が熱い。
 胸が痛い。

 そして、手紙の文がもう一度、頭の中で響いた。

『あなたに聞いても、答えがもらえなかったから』

 蓮は、ようやく頷いた。

「……分かった」

 その声は、いつもより少しだけ震えていた。