あなたの隣にいたのは、私じゃなかった


 夜が明ける前の家は、音がしない。

 冷蔵庫の低い唸りと、時計の針だけ。
 結衣はその静けさの中で、最小限の荷物をまとめていた。

 大きなスーツケースは使わない。
 引きずる音が、誰かを起こしてしまうから。
 バッグ一つ。着替えと必要書類、財布とスマホ。
 そして、リングケースは置いていく。

 結衣は、テーブルの上の封筒を見つめた。
 離婚届。未提出。
 白い紙が、薄いのに重い。

 昨夜のことが頭の中で繰り返される。

「私は、あなたの何ですか」

 答えは、なかった。

 そして――望月の一言が、最後まで胸に刺さっている。

『副社長は、私が支えます』

 結衣はそれを、蓮に伝えた。
 伝えたのに、蓮は何も言えなかった。
 怒りも、否定も、説明も。

 つまり、それが“現実”なのだと思ってしまった。

(私、もうここにいない方がいい)

 結衣はペンを取り、便箋を一枚だけ引き出した。
 長い手紙は書かない。
 書き始めたら、気持ちが溢れてしまうから。

 短く。
 責めずに。
 でも、決意だけは残す。

 結衣はゆっくり書いた。



「蓮さんへ
指輪と離婚届は置いていきます。
出していません。
でも、私は少し距離を置きます。

望月さんに『副社長は私が支えます』と言われた時、
私は“妻の席”が最初から空いていたのだと思ってしまいました。
あなたに聞いても、答えがもらえなかったから。

ごめんなさい。
あなたの邪魔になりたくありません。
結衣」



 最後の一行を書いた瞬間、指先が震えた。
 涙が落ちそうになって、結衣は便箋を伏せる。

 責めない、と決めたのに。
 “答えがもらえなかった”と書いてしまった。
 それでも、これが結衣の真実だった。

 結衣は便箋を封筒に入れ、リングケースの隣に置いた。
 離婚届も、その横に揃える。

 整えられた三つのもの。
 指輪。
 離婚届。
 短い手紙。

 ――夫婦の終わり方として、あまりにも静かで、あまりにも綺麗だ。
 だからこそ、痛い。

 結衣は最後にキッチンを見回した。
 いつも作っていた作り置きの容器。
 二人分のマグカップ。
 それらが、ただの物に戻っていく。

 玄関で靴を履くとき、結衣は小さく息を吐いた。
 鍵を持ち上げ、そっと回す。

 音を立てないように。
 誰の邪魔にもならないように。

 外へ出ると、朝の空気が頬を刺した。
 まだ暗い。
 街灯が濡れた地面を照らしている。

 結衣は門を出て、振り返らなかった。
 振り返ったら、戻ってしまうから。

 歩き出して数分後、スマホが震えた。

 ――蓮からの着信。

 結衣は画面を見つめた。
 出れば、声が聞ける。
 でも、今さら“待て”を聞いても、心は戻れない気がした。

 結衣は通話ボタンに触れられないまま、震える指でスマホを握りしめた。

(……遅いよ)

 口に出さない。
 声にしない。
 結衣はただ、歩いた。

 家の中。
 目覚めた蓮が、テーブルの上の三つを見つける。

 指輪と、離婚届と、短い手紙。

 そして――手紙の中の一文が、喉の奥に刺さる。

『望月さんに「副社長は私が支えます」と言われた時――』

 蓮は立ち尽くす。
 追いかける方法が分からないまま、結衣が消えた家の静けさに飲まれていく