リビングの空気が、紙みたいに薄くなっていた。
テーブルの上には、封筒。
離婚届。
リングケース。
蓮の視線がそこから離れない。
結衣は、その視線に耐えられなくて、指先を握りしめた。
「……理由を言え」
蓮の声は低い。
怒っているのか、壊れそうなのか分からない声だった。
結衣は首を振った。
言えば、責めることになる。
でももう、責めずに終われるところまで来てしまっている。
結衣は息を吸い、覚悟して口を開いた。
「……望月さんに、言われました」
蓮の眉が僅かに寄る。
「望月が?」
結衣は頷く。
喉が熱くて、声が掠れる。
「私が……不安で。あなたの帰りが遅い日が続いて……」
「家政婦さんのことも、どうしてなのか分からなくて……」
「それで、望月さんに電話したんです」
蓮の指先が、僅かに強張った。
結衣はその変化を見てしまって、胸が痛む。
(やっぱり……触れたらいけない場所だったんだ)
結衣は続ける。
「そしたら望月さんが……」
結衣は目を閉じた。
あの声が、そのまま蘇る。
「『副社長は、私が支えます』って」
沈黙が落ちた。
結衣は目を開けた。
蓮の顔は動いていない。
でも、瞳の奥が僅かに揺れている。
結衣は、震える声で言った。
「それだけじゃなくて……」
「『奥様は静かにお過ごしください』って」
「『邪魔にならないことも、奥様の役目』だって……」
言い終えた瞬間、結衣の喉が締まった。
涙が出そうになる。
でも出したら、負ける気がした。
蓮は、しばらく黙っていた。
その沈黙が、結衣には怖かった。
否定してほしい。
怒ってほしい。
望月に向けてでも、いいから。
でも蓮は――何も言わない。
結衣は、その沈黙に耐えきれなくなった。
「……蓮さん」
呼ぶ声が、小さく震えた。
「私、ずっと……分からなかったんです」
結衣は笑おうとして、できなかった。
唇が痛い。
「あなたが何を考えてるのか」
「どうして触れてくれないのか」
「どうして、私には話してくれないのか」
蓮の肩が、わずかに動いた。
息を吸ったのかもしれない。
結衣はその小さな動きに、また期待してしまう。
でも、期待はいつも外れる。
結衣は、テーブルの端に指先を置いた。
自分の体を支えるために。
「会社での噂も、見てしまったものも……全部、私の中で一本になってしまって」
結衣の視界が滲む。
それでも続けた。
「私は……あなたの隣にいるべき人じゃないんだって、思うようになって」
言葉を吐くたび、胸が削れる。
でも、言わないと終われない。
結衣は、最後に――一番痛い質問を口にした。
「ねえ、蓮さん」
蓮が結衣を見る。
結衣は、自分の胸の中の最後の糸を引きちぎるように言った。
「私は、あなたの何ですか」
静寂。
蓮の目が大きくなる。
驚きと、焦りと、言葉にできない痛みが混ざる。
結衣は待った。
返事を。
たった一言でいい。
“妻だ”でも、“大切だ”でも、“必要だ”でも。
でも――。
蓮の口が少し開いて、閉じる。
視線が揺れる。
言いたいのに言えない顔。
沈黙が落ちる。
結衣の胸の中で、何かが完全に折れた。
(……答えられない)
それが、答えだった。
結衣は笑ってしまった。
涙が落ちるより先に、笑ってしまう。
「……そっか」
声が、乾いていた。
「ごめんなさい。変なこと、聞きましたね」
結衣はリングケースに手を伸ばし、それを蓮の前にそっと置いた。
指輪は冷たい。
結衣の心も、同じ温度になっていく。
「……これ、返します」
蓮の手が動かない。
受け取らない。
受け取れない。
結衣は立ち上がった。
膝が震えたけれど、立てた。
「離婚届は、まだ出してません」
「でも……私の気持ちは、もう……」
言い切れなかった。
言い切ったら、最後になるから。
蓮がようやく声を出す。
「……待て。結衣」
その“待て”は、結衣の心を引き止めなかった。
結衣は首を振る。
「待つの、もう……疲れました」
結衣は小さく頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
その言葉が、夫婦の最後の挨拶みたいで、結衣の胸が痛んだ。
でも結衣は、泣かなかった。
泣いたら、また戻ってしまうから。
結衣は寝室へ向かい、扉を閉めた。
背後で、蓮の足音が一歩だけ近づいて、止まる気配がした。
でも、扉は開かなかった。
結衣はベッドに座り込み、胸を押さえた。
――私は、あなたの何ですか。
答えがない夜は、
結衣の心を静かに殺していった。

