あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

 翌日、結衣は本社へ行った。

 蓮が「家を空けろ」と言った理由を、どうしても確かめたかった。
 家政婦を入れるのは本当に“休め”という配慮なのか。
 それとも――私が邪魔だからなのか。

 でも結衣は、蓮本人に聞けない。
 だからまた、秘書室へ電話をかけた。

 呼び出し音は三回。
 いつもと同じ、整った声が出る。

『九条副社長室、望月でございます』

「あの……朝霧結衣です」

『奥様でいらっしゃいますね。お世話になっております』

 優しい言い方なのに、距離が一ミリも縮まらない。

「昨日、蓮さんから“家を空けて”と言われて……家政婦さんを入れると……」

 結衣は言いながら、自分が惨めになる。
 妻が、夫の家のことを、秘書に尋ねている。

 望月は間を置かず答えた。

『はい。手配は私の方で進めております』

「……私、そこまで体調が悪そうでしたか」

 結衣は笑いながら言った。
 笑うしかなかった。

 望月は少しだけ声の温度を落とす。

『副社長は、お優しい方ですから』

 優しい。
 その言葉が、結衣の胸に刺さる。

(優しいなら、私にも――)

 結衣は息を吸って、勇気を出した。

「……望月さん。ひとつだけ、聞いてもいいですか」

『はい』

「私……蓮さんに、迷惑をかけていますか」

 電話の向こうで、ほんの一瞬沈黙があった。
 たった一秒。
 でも結衣には長かった。

 望月が答える。

『迷惑、というより――副社長の負担にならない方が良い、と判断しております』

 判断。
 その単語が結衣の心臓を冷やした。

(望月さんが、決めるの?)

 結衣は震える声で言う。

「……私のことを、どういうふうに……」

『奥様』

 望月が結衣の言葉を遮る。
 声は丁寧で、柔らかい。
 けれど、刃が入っていた。

『副社長は、私が支えます』

 結衣の息が止まった。

 言葉が、胸の真ん中に突き刺さる。
 “妻”の席を、当然のように奪っていく言い方。

 結衣は何も言えなかった。
 電話口で黙るしかない。

 望月は続けた。

『ですから、奥様は――無理をなさらないでください』

 優しい言い方。
 でも、その“無理をするな”は、結衣にとって別の意味を持っていた。

(……無理=妻でいること?)

 望月は淡々と、さらに深く刺す。

『副社長の生活は、私が整えます。
 仕事も、予定も、必要な対外対応も。
 ……奥様は、奥様のペースで、静かにお過ごしください』

 静かに。
 お過ごしください。

 それは“居場所を作る言葉”ではなく、“居場所を外へ押し出す言葉”だった。

 結衣の喉が、きゅっと狭くなる。

「……私は、妻なのに」

 思わず漏れた。
 自分の声が震えているのが分かる。

 望月は、少しだけ息をつき、淡い同情の色を混ぜた。

『奥様。妻であることと、副社長を支えることは――別です』

 結衣の胸が、崩れた。

(別、なんだ)

 私は“妻”であっても、支える役ではない。
 支えるのは、望月。
 “隣”に立つのは、望月。

 結衣の頭の中で、社内写真の距離が蘇る。
 会食の二件。
 車の中。
 保護猫施設の前。
 そして、猫に向けられた柔らかい声。

 全部が一本の線になって繋がってしまう。

『副社長は今、とても大事な局面におります』

 望月は続ける。

『奥様が不安になるのは理解します。
 ですが――副社長の邪魔にならないことも、奥様の役目かと』

 邪魔。
 その言葉は、結衣が一番恐れていたものだ。

 結衣の指先が冷たくなる。
 スマホを握る手が震えた。

「……分かりました」

 声が、かすれた。
 望月は変わらず丁寧に言う。

『ありがとうございます。では、家政婦の件は予定通り進めますね』

「……はい」

『失礼いたします』

 通話が切れた。
 画面が暗くなる。

 結衣はその場に立ち尽くした。

 “副社長は、私が支えます”

 その一言が、結衣の胸の中で何度も繰り返される。
 夫の隣の席に、私はいない。
 私は、“静かに過ごす”だけの人。

 結衣はゆっくり息を吐いた。
 泣かない。
 泣いたら、余計にみっともない。

 でも、胸の奥はもう、折れていた。

(……じゃあ私は、何のためにここにいるの)

 その答えが見えないまま、結衣はスマホをバッグにしまった。
 歩き出そうとして、足が震える。

 ――もう少しだけ、頑張ろう。
 そう思うことすら、苦しかった。