副社長室の前の廊下は、温度が違う。
空調のせいじゃない。空気そのものが、きちんと整列していて、余計な音を許さない感じがする。
結衣は受付カウンターの前で、手提げ袋を胸に抱えた。中には、蓮の好きそうな味のクッキー。昨夜、やっと聞き出せた「甘いものは苦手じゃない」という情報だけを頼りに選んだ。
「……あの、九条の……蓮さんに、これを」
言い慣れない呼び方が舌に引っかかる。
“夫”なのに、会社では「副社長」。それだけで、遠くなる。
カウンターの内側にいる女性が、顔を上げた。
髪はきっちりまとめられ、白いブラウスの襟元まで一分の乱れもない。視線だけで人を測れるような、涼しい目。
――望月玲香。蓮の秘書。
「奥様でいらっしゃいますね」
声は丁寧だ。
けれど、丁寧さの中に“手順”がある。奥様という個人ではなく、役職のように扱われている。
「はい。朝霧……結衣です」
「承知いたしました。副社長は現在、会議中でございます」
結衣は、思わず腕時計を見る。
蓮の予定表は、結衣には共有されていない。聞こうとしても、いつも「忙しいから」と言われて終わる。
「そうなんですね……あの、終わるまで待っても――」
「申し訳ございません。お約束のないご面会はお受けできかねます」
結衣の言葉を、望月はやわらかく切った。
笑顔は作っているのに、入り口は閉まっている。
(私は、妻なのに)
喉の奥が熱くなる。けれど、ここで感情を見せたら負けだと思った。
結衣は、手提げ袋を差し出した。
「では……これだけ。昨日、蓮さんが帰宅前に“甘いもの”と話していたので……」
望月の視線が一瞬だけ袋に落ちた。
それはほんの僅かな時間なのに、結衣は見逃さなかった。
“確認する目”。値札を確かめるような目。
「お預かりいたします」
望月は袋を受け取り、机の端に置いた。置き方まで正確で、結衣の手作りの温度が、そこだけ冷える気がした。
「副社長には、こちらからお伝えいたしますので」
「……ありがとうございます」
ありがとうございます。
結衣も、同じ言葉を返している。
なのに、胸の中で何かが、じわじわと崩れていく。
結衣が引き返そうとしたとき、廊下の奥から足音が近づいた。
スーツ姿の男性たちが数名、書類を抱えて歩いてくる。中央に、蓮がいた。
黒いスーツに、完璧な立ち姿。
結衣は反射的に、笑顔を作った。
「……蓮さん」
呼びかけた声は、小さく震えたかもしれない。
蓮の視線が、こちらを捉える。
一瞬、目が合う。
その瞬間だけ、結衣は救われた気がした。
けれど――。
「副社長、次の会議室はこちらです」
望月が、蓮の隣にぴたりとつく。
自然すぎて、息を呑む。妻の立ち位置が、そこにはない。
蓮は、結衣に向けて何か言いかけたように見えた。
口が、微かに動く。
でも、周囲の視線と、望月の存在が、その言葉を飲み込ませる。
「……後で」
それだけが、落ちてきた。
後で。
いつもそうだ。
“後で”は、ほとんど来ない。
「はい……」
結衣は頷きながら、立ち尽くしてしまった。
蓮の背中が遠ざかる。望月は当然のように、隣を歩く。
すれ違いざま、望月が結衣へ向けた視線は、優しくも冷たくもない。
ただ、“仕事の効率”だけを映していた。
――その目が、いちばん痛かった。
結衣は受付の前を離れ、エレベーターに乗り込む。
鏡に映った自分の顔が、思ったより青い。
(私、ここに来ちゃいけなかったのかな)
エレベーターの扉が閉じる寸前、廊下の奥から蓮の声が聞こえた。
「資料は、――」
部下へ指示する声。冷静で、迷いがない。
会社の蓮は、完璧だ。
結衣の胸が、ぎゅっと締まる。
(私は……夫の“仕事”の外側にいるんだ)
手のひらに、さっきまで持っていた袋の感触が残っている。
小さな温度だけが、取り残されたみたいに。
帰りのロビーで、結衣はスマホを開いた。
蓮に「会えたよ」と送ることもできた。
“後で”を、確認することもできた。
でも、指が動かない。
送った瞬間、望月が蓮の画面を覗く気がして。
そんな想像をする自分が嫌で、結衣はスマホを伏せた。
――妻の席が、今日もひとつ消えていく。
空調のせいじゃない。空気そのものが、きちんと整列していて、余計な音を許さない感じがする。
結衣は受付カウンターの前で、手提げ袋を胸に抱えた。中には、蓮の好きそうな味のクッキー。昨夜、やっと聞き出せた「甘いものは苦手じゃない」という情報だけを頼りに選んだ。
「……あの、九条の……蓮さんに、これを」
言い慣れない呼び方が舌に引っかかる。
“夫”なのに、会社では「副社長」。それだけで、遠くなる。
カウンターの内側にいる女性が、顔を上げた。
髪はきっちりまとめられ、白いブラウスの襟元まで一分の乱れもない。視線だけで人を測れるような、涼しい目。
――望月玲香。蓮の秘書。
「奥様でいらっしゃいますね」
声は丁寧だ。
けれど、丁寧さの中に“手順”がある。奥様という個人ではなく、役職のように扱われている。
「はい。朝霧……結衣です」
「承知いたしました。副社長は現在、会議中でございます」
結衣は、思わず腕時計を見る。
蓮の予定表は、結衣には共有されていない。聞こうとしても、いつも「忙しいから」と言われて終わる。
「そうなんですね……あの、終わるまで待っても――」
「申し訳ございません。お約束のないご面会はお受けできかねます」
結衣の言葉を、望月はやわらかく切った。
笑顔は作っているのに、入り口は閉まっている。
(私は、妻なのに)
喉の奥が熱くなる。けれど、ここで感情を見せたら負けだと思った。
結衣は、手提げ袋を差し出した。
「では……これだけ。昨日、蓮さんが帰宅前に“甘いもの”と話していたので……」
望月の視線が一瞬だけ袋に落ちた。
それはほんの僅かな時間なのに、結衣は見逃さなかった。
“確認する目”。値札を確かめるような目。
「お預かりいたします」
望月は袋を受け取り、机の端に置いた。置き方まで正確で、結衣の手作りの温度が、そこだけ冷える気がした。
「副社長には、こちらからお伝えいたしますので」
「……ありがとうございます」
ありがとうございます。
結衣も、同じ言葉を返している。
なのに、胸の中で何かが、じわじわと崩れていく。
結衣が引き返そうとしたとき、廊下の奥から足音が近づいた。
スーツ姿の男性たちが数名、書類を抱えて歩いてくる。中央に、蓮がいた。
黒いスーツに、完璧な立ち姿。
結衣は反射的に、笑顔を作った。
「……蓮さん」
呼びかけた声は、小さく震えたかもしれない。
蓮の視線が、こちらを捉える。
一瞬、目が合う。
その瞬間だけ、結衣は救われた気がした。
けれど――。
「副社長、次の会議室はこちらです」
望月が、蓮の隣にぴたりとつく。
自然すぎて、息を呑む。妻の立ち位置が、そこにはない。
蓮は、結衣に向けて何か言いかけたように見えた。
口が、微かに動く。
でも、周囲の視線と、望月の存在が、その言葉を飲み込ませる。
「……後で」
それだけが、落ちてきた。
後で。
いつもそうだ。
“後で”は、ほとんど来ない。
「はい……」
結衣は頷きながら、立ち尽くしてしまった。
蓮の背中が遠ざかる。望月は当然のように、隣を歩く。
すれ違いざま、望月が結衣へ向けた視線は、優しくも冷たくもない。
ただ、“仕事の効率”だけを映していた。
――その目が、いちばん痛かった。
結衣は受付の前を離れ、エレベーターに乗り込む。
鏡に映った自分の顔が、思ったより青い。
(私、ここに来ちゃいけなかったのかな)
エレベーターの扉が閉じる寸前、廊下の奥から蓮の声が聞こえた。
「資料は、――」
部下へ指示する声。冷静で、迷いがない。
会社の蓮は、完璧だ。
結衣の胸が、ぎゅっと締まる。
(私は……夫の“仕事”の外側にいるんだ)
手のひらに、さっきまで持っていた袋の感触が残っている。
小さな温度だけが、取り残されたみたいに。
帰りのロビーで、結衣はスマホを開いた。
蓮に「会えたよ」と送ることもできた。
“後で”を、確認することもできた。
でも、指が動かない。
送った瞬間、望月が蓮の画面を覗く気がして。
そんな想像をする自分が嫌で、結衣はスマホを伏せた。
――妻の席が、今日もひとつ消えていく。

