九条家の本邸からの電話は、いつも突然だ。
『結衣さん、明日、少し顔を出せる?』
義母――九条夫人の声は柔らかい。
柔らかいのに、断れない形をしている。
「……はい。伺います」
返事をした瞬間、結衣の胸の奥が重く沈んだ。
嫌な予感が、はっきりしているのに、逃げられない。
翌日。
本邸の玄関は相変わらず磨かれ、結衣の足音だけが不釣り合いに響いた。
通された応接間には、義母だけがいた。
いつもなら、義父や使用人の気配があるのに、今日は“二人きり”に整えられている。
それだけで、結衣は悟る。
(今日は……私を裁く日だ)
「いらっしゃい。座って」
義母は紅茶を勧める。
香りが上品で、甘い。
結衣はその甘さに、昨夜の“知らない香り”を思い出してしまい、喉が詰まった。
「……ありがとうございます」
結衣は湯気に顔を隠すようにカップへ口をつけた。
味がしない。
義母は結衣をじっと見た。
微笑んでいるのに、瞳が笑っていない。
「結衣さん。最近、蓮が忙しいのは知ってるわよね」
「……はい」
「会食が増えているのも」
結衣の指先が、カップの持ち手を強く握った。
(知ってる。だから怖い)
義母は扇子をそっと畳に置いた。
ゆっくりと、丁寧に。
この家の言葉はいつも、ゆっくり刺す。
「あなた、ちゃんと“妻”をしてる?」
結衣の呼吸が止まる。
「……妻、ですか」
「そう。妻には、妻の務めがあるでしょう」
優しい声で、残酷なことを言う。
義母は結衣の頬色を確かめるように目を細める。
「ねえ、結衣さん。
男はね、“満たされない”と外で満たそうとするの」
結衣の心臓が、鈍い音を立てた。
(外で……)
それは噂の形をしている。
でも義母は“噂”とは言わない。
言わずに、結衣に想像させて、罪悪感だけを植え付ける。
結衣は笑おうとした。
唇が震えた。
「……私は、努力しています」
「努力?」
義母が小さく首を傾げる。
その仕草が、まるで“子どもを諭す大人”のようだった。
「結婚して、まだ日も浅いのに。
あなたたち、寝室はどうしているの?」
結衣の喉が、きゅっと狭くなる。
答えたくない。
でも沈黙は“答え”になる。
「……」
義母が結衣の沈黙を受け取ったように、微笑む。
「あら。そういうこと」
結衣の目の前が、一瞬白くなる。
(違う……言えないだけ)
蓮が触れない。
蓮が踏み込まない。
その理由を、結衣は知らない。
でも――義母の前では、すべて結衣の責任になる。
「結衣さん」
義母は声を少しだけ落とした。
そこに“親切”が混じる。
親切の形をした、毒だ。
「あなたが妻として役目を果たせないなら、蓮は困るのよ」
結衣の胸が、ぎゅっと潰れる。
「……私が、悪いんですか」
思わず漏れた声は、掠れていた。
義母は驚かない。
最初から結衣がこう言うのを待っていたみたいに、静かに頷いた。
「悪い、なんて言わないわ。ただ――現実よ」
現実。
その言葉が、結衣の心に重く落ちる。
義母は続ける。
「蓮は忙しいの。立場がある。
変な噂が立てば、家の名にも傷がつく」
結衣は息を飲んだ。
(噂……知ってるんだ)
義母は、知らないふりをして全部知っている。
そしてそれを“結衣の責任”に変える。
「あなたが支えなさい。
あなたが、蓮を満たしなさい」
結衣の指先が、冷える。
胸の奥が、痛いほど苦しい。
(満たすって……何)
夜のこと。
女としてのこと。
“妻としての価値”のこと。
結衣は俯いた。
涙が落ちそうで、必死に堪えた。
ここで泣いたら、負ける。
“可哀想な妻”として扱われたら、もっと惨めになる。
義母は結衣の沈黙を、また自分の都合のいいように解釈する。
「……あなた、蓮に愛されていないの?」
結衣の胸が、裂けそうになった。
その問いは“心配”の仮面をかぶっている。
本当は、確認だ。
結衣が“妻として不合格”かどうかの確認。
結衣は笑った。
笑ってしまった。
泣かないために。
「……愛されてるかどうかは……分かりません」
義母の目が、細くなる。
「分からない、じゃ困るのよ」
結衣の中で、何かが折れた。
――私、もう頑張れない。
頑張っても、頑張っても、
蓮は言葉をくれない。
義母は責める。
会社は噂を回す。
そして結衣は、ただ“耐える”だけ。
結衣はカップを置き、丁寧に頭を下げた。
「……失礼いたします」
義母が声をかける。
「結衣さん」
結衣は振り向かなかった。
振り向いたら、泣いてしまう。
「妻なら――」
義母の声が追いかけてくる。
「妻なら、夫を満たしなさい」
結衣は玄関まで歩きながら、その言葉を胸の奥で何度も反芻した。
満たす。
満たす。
(私は、満たされてないのに)
車に乗り込み、窓の外の庭を見つめる。
整った庭は、何も崩れない。
崩れるのは、いつも結衣だけだ。
家に着く頃、結衣は決めていた。
(もう、これ以上――自分を削れない)
蓮に言えない涙が、喉の奥に溜まって、熱く痛んだ。
『結衣さん、明日、少し顔を出せる?』
義母――九条夫人の声は柔らかい。
柔らかいのに、断れない形をしている。
「……はい。伺います」
返事をした瞬間、結衣の胸の奥が重く沈んだ。
嫌な予感が、はっきりしているのに、逃げられない。
翌日。
本邸の玄関は相変わらず磨かれ、結衣の足音だけが不釣り合いに響いた。
通された応接間には、義母だけがいた。
いつもなら、義父や使用人の気配があるのに、今日は“二人きり”に整えられている。
それだけで、結衣は悟る。
(今日は……私を裁く日だ)
「いらっしゃい。座って」
義母は紅茶を勧める。
香りが上品で、甘い。
結衣はその甘さに、昨夜の“知らない香り”を思い出してしまい、喉が詰まった。
「……ありがとうございます」
結衣は湯気に顔を隠すようにカップへ口をつけた。
味がしない。
義母は結衣をじっと見た。
微笑んでいるのに、瞳が笑っていない。
「結衣さん。最近、蓮が忙しいのは知ってるわよね」
「……はい」
「会食が増えているのも」
結衣の指先が、カップの持ち手を強く握った。
(知ってる。だから怖い)
義母は扇子をそっと畳に置いた。
ゆっくりと、丁寧に。
この家の言葉はいつも、ゆっくり刺す。
「あなた、ちゃんと“妻”をしてる?」
結衣の呼吸が止まる。
「……妻、ですか」
「そう。妻には、妻の務めがあるでしょう」
優しい声で、残酷なことを言う。
義母は結衣の頬色を確かめるように目を細める。
「ねえ、結衣さん。
男はね、“満たされない”と外で満たそうとするの」
結衣の心臓が、鈍い音を立てた。
(外で……)
それは噂の形をしている。
でも義母は“噂”とは言わない。
言わずに、結衣に想像させて、罪悪感だけを植え付ける。
結衣は笑おうとした。
唇が震えた。
「……私は、努力しています」
「努力?」
義母が小さく首を傾げる。
その仕草が、まるで“子どもを諭す大人”のようだった。
「結婚して、まだ日も浅いのに。
あなたたち、寝室はどうしているの?」
結衣の喉が、きゅっと狭くなる。
答えたくない。
でも沈黙は“答え”になる。
「……」
義母が結衣の沈黙を受け取ったように、微笑む。
「あら。そういうこと」
結衣の目の前が、一瞬白くなる。
(違う……言えないだけ)
蓮が触れない。
蓮が踏み込まない。
その理由を、結衣は知らない。
でも――義母の前では、すべて結衣の責任になる。
「結衣さん」
義母は声を少しだけ落とした。
そこに“親切”が混じる。
親切の形をした、毒だ。
「あなたが妻として役目を果たせないなら、蓮は困るのよ」
結衣の胸が、ぎゅっと潰れる。
「……私が、悪いんですか」
思わず漏れた声は、掠れていた。
義母は驚かない。
最初から結衣がこう言うのを待っていたみたいに、静かに頷いた。
「悪い、なんて言わないわ。ただ――現実よ」
現実。
その言葉が、結衣の心に重く落ちる。
義母は続ける。
「蓮は忙しいの。立場がある。
変な噂が立てば、家の名にも傷がつく」
結衣は息を飲んだ。
(噂……知ってるんだ)
義母は、知らないふりをして全部知っている。
そしてそれを“結衣の責任”に変える。
「あなたが支えなさい。
あなたが、蓮を満たしなさい」
結衣の指先が、冷える。
胸の奥が、痛いほど苦しい。
(満たすって……何)
夜のこと。
女としてのこと。
“妻としての価値”のこと。
結衣は俯いた。
涙が落ちそうで、必死に堪えた。
ここで泣いたら、負ける。
“可哀想な妻”として扱われたら、もっと惨めになる。
義母は結衣の沈黙を、また自分の都合のいいように解釈する。
「……あなた、蓮に愛されていないの?」
結衣の胸が、裂けそうになった。
その問いは“心配”の仮面をかぶっている。
本当は、確認だ。
結衣が“妻として不合格”かどうかの確認。
結衣は笑った。
笑ってしまった。
泣かないために。
「……愛されてるかどうかは……分かりません」
義母の目が、細くなる。
「分からない、じゃ困るのよ」
結衣の中で、何かが折れた。
――私、もう頑張れない。
頑張っても、頑張っても、
蓮は言葉をくれない。
義母は責める。
会社は噂を回す。
そして結衣は、ただ“耐える”だけ。
結衣はカップを置き、丁寧に頭を下げた。
「……失礼いたします」
義母が声をかける。
「結衣さん」
結衣は振り向かなかった。
振り向いたら、泣いてしまう。
「妻なら――」
義母の声が追いかけてくる。
「妻なら、夫を満たしなさい」
結衣は玄関まで歩きながら、その言葉を胸の奥で何度も反芻した。
満たす。
満たす。
(私は、満たされてないのに)
車に乗り込み、窓の外の庭を見つめる。
整った庭は、何も崩れない。
崩れるのは、いつも結衣だけだ。
家に着く頃、結衣は決めていた。
(もう、これ以上――自分を削れない)
蓮に言えない涙が、喉の奥に溜まって、熱く痛んだ。

