結衣は、もう会社へ行きたくなかった。
受付の冷たい光。
エレベーターの無機質な音。
すれ違う社員の視線――優しさではなく“観察”の気配。
けれど、その日は逃げられなかった。
義母から渡された書類を、どうしても本社の総務に届けなければならない。
(早く終わらせて帰ろう)
結衣はそう決めて、顔を上げた。
髪を整え、口紅を薄く引き、笑顔の形だけを作る。
“副社長夫人”は、崩れてはいけない。
総務フロアは忙しそうだった。
結衣は担当者に書類を渡し、丁寧に頭を下げる。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。……奥様、お疲れさまです」
その言葉に、どこか気遣いの匂いが混ざっている。
結衣は気づかないふりをした。
帰ろうとしたとき、廊下の角で足が止まる。
給湯室。
前に“噂の芽”を聞いてしまった場所。
(通り過ぎよう)
そう思ったのに、扉の向こうから聞こえる声が、結衣を足止めした。
「ねえ、最近の副社長、やばくない?」
軽い声。
笑い声。
結衣の指先が、カバンの持ち手を強く握った。
聞きたくないのに、耳が勝手に拾う。
「また女の人と一緒にいるの見たんだけど。車で送ってた」
(……車)
結衣の胸が、ひゅっと縮む。
あの夜の映像が、鮮明に蘇る。
「この前は広報の白石さんと並んでたし、次は取引先の相良さんって噂もあるし」
「奥様、いるのにね」
“奥様”という単語が、結衣の体を外側から叩いた。
「てか、奥様、最近見かけないよね。……もう別居とか?」
笑い声。
軽い。
軽いのに、結衣の足元が崩れる。
(別居……?)
まだ、していない。
していないのに、噂は勝手に先へ進む。
「でも一番はさ、あの人じゃない?」
別の声が少しだけ低くなる。
秘密の話をするみたいに。
「……猫のところの女」
結衣の呼吸が止まった。
(猫のところ……?)
知っている。
知ってしまっている。
保護猫施設の前で見た、あの二人。
「ね、見たことある。ルルだっけ? 猫の名前。
副社長、あそこにちょいちょい通ってるらしいよ」
「優しいよね~。猫にだけ声違うんだって。ギャップやばい」
ギャップ。
結衣の胸が痛んだ。
(私が聞いた声を、みんなも知ってる)
結衣だけの秘密じゃない。
結衣だけが傷ついたわけじゃない。
でも――結衣だけが、妻なのにその声をもらえない。
「その女の人さ、スタッフらしいけど、距離近くない?
袖の毛払ってあげたり、普通する?」
「するでしょ。仲良いんだよ。ほら、恋人みたいじゃん」
恋人。
その言葉が、結衣の胸の奥で鈍く響いた。
(恋人みたいだった)
結衣自身が、そう感じてしまった。
だからこそ、今の噂は“確認”みたいに刺さる。
「奥様、かわいそうだよね」
「政略結婚だしさ、最初から本命がいたんじゃない?」
結衣の喉が、きゅっと狭くなる。
(最初から……本命)
それは、結衣が一番怖い答えだった。
結衣は一歩下がり、壁に背中をつけた。
目の前が、少し白くなる。
――私が選ばれたのは、家だから。
――本当は、最初から“別の人”がいた。
その考えが、胸の中で形になる。
否定できない。
否定する材料が何もない。
扉の向こうの声は続く。
「でも奥様、いい人そうじゃない?
余計にさ、きついよね」
「うん。ああいう人ほど、黙って泣くんだよ」
結衣は、口元を押さえた。
(泣いてない)
泣いてないのに、泣いているみたいだった。
そのとき、背後から足音がした。
「……奥様?」
振り向くと、人事部長の水野が立っていた。
驚いた顔。
そして、すぐに“気づいた”顔。
結衣は、慌てて笑顔を作った。
「こんにちは。すみません、少し……迷ってしまって」
水野は視線を給湯室の扉へ向け、眉を寄せる。
何か言いかけて、やめた。
「……こちらへ。エレベーターまでご案内します」
「ありがとうございます」
結衣は歩き出した。
足が震えるのを、ヒールで隠すように。
エレベーターの前で、水野が低く言った。
「……あの、奥様。社内の噂は……」
結衣は首を振った。
聞きたくない。
止めてほしい。
でも、止めてもらっても、結局“現実”は変わらない気がした。
「……大丈夫です」
大丈夫じゃない。
でも、そう言うしかない。
エレベーターの扉が開く。
結衣が乗り込むと、水野は一歩引いて頭を下げた。
「……失礼いたします」
扉が閉まる。
鏡に映った自分の顔が、白い。
結衣は、やっと息を吐いた。
(私、否定できない)
噂が“決定打”になった。
目撃が、香りが、沈黙が、すべて噂と一本の線になって繋がってしまった。
――夫は、私にだけ優しくない。
その結論が、もう揺らがない場所まで、落ちていく。
受付の冷たい光。
エレベーターの無機質な音。
すれ違う社員の視線――優しさではなく“観察”の気配。
けれど、その日は逃げられなかった。
義母から渡された書類を、どうしても本社の総務に届けなければならない。
(早く終わらせて帰ろう)
結衣はそう決めて、顔を上げた。
髪を整え、口紅を薄く引き、笑顔の形だけを作る。
“副社長夫人”は、崩れてはいけない。
総務フロアは忙しそうだった。
結衣は担当者に書類を渡し、丁寧に頭を下げる。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。……奥様、お疲れさまです」
その言葉に、どこか気遣いの匂いが混ざっている。
結衣は気づかないふりをした。
帰ろうとしたとき、廊下の角で足が止まる。
給湯室。
前に“噂の芽”を聞いてしまった場所。
(通り過ぎよう)
そう思ったのに、扉の向こうから聞こえる声が、結衣を足止めした。
「ねえ、最近の副社長、やばくない?」
軽い声。
笑い声。
結衣の指先が、カバンの持ち手を強く握った。
聞きたくないのに、耳が勝手に拾う。
「また女の人と一緒にいるの見たんだけど。車で送ってた」
(……車)
結衣の胸が、ひゅっと縮む。
あの夜の映像が、鮮明に蘇る。
「この前は広報の白石さんと並んでたし、次は取引先の相良さんって噂もあるし」
「奥様、いるのにね」
“奥様”という単語が、結衣の体を外側から叩いた。
「てか、奥様、最近見かけないよね。……もう別居とか?」
笑い声。
軽い。
軽いのに、結衣の足元が崩れる。
(別居……?)
まだ、していない。
していないのに、噂は勝手に先へ進む。
「でも一番はさ、あの人じゃない?」
別の声が少しだけ低くなる。
秘密の話をするみたいに。
「……猫のところの女」
結衣の呼吸が止まった。
(猫のところ……?)
知っている。
知ってしまっている。
保護猫施設の前で見た、あの二人。
「ね、見たことある。ルルだっけ? 猫の名前。
副社長、あそこにちょいちょい通ってるらしいよ」
「優しいよね~。猫にだけ声違うんだって。ギャップやばい」
ギャップ。
結衣の胸が痛んだ。
(私が聞いた声を、みんなも知ってる)
結衣だけの秘密じゃない。
結衣だけが傷ついたわけじゃない。
でも――結衣だけが、妻なのにその声をもらえない。
「その女の人さ、スタッフらしいけど、距離近くない?
袖の毛払ってあげたり、普通する?」
「するでしょ。仲良いんだよ。ほら、恋人みたいじゃん」
恋人。
その言葉が、結衣の胸の奥で鈍く響いた。
(恋人みたいだった)
結衣自身が、そう感じてしまった。
だからこそ、今の噂は“確認”みたいに刺さる。
「奥様、かわいそうだよね」
「政略結婚だしさ、最初から本命がいたんじゃない?」
結衣の喉が、きゅっと狭くなる。
(最初から……本命)
それは、結衣が一番怖い答えだった。
結衣は一歩下がり、壁に背中をつけた。
目の前が、少し白くなる。
――私が選ばれたのは、家だから。
――本当は、最初から“別の人”がいた。
その考えが、胸の中で形になる。
否定できない。
否定する材料が何もない。
扉の向こうの声は続く。
「でも奥様、いい人そうじゃない?
余計にさ、きついよね」
「うん。ああいう人ほど、黙って泣くんだよ」
結衣は、口元を押さえた。
(泣いてない)
泣いてないのに、泣いているみたいだった。
そのとき、背後から足音がした。
「……奥様?」
振り向くと、人事部長の水野が立っていた。
驚いた顔。
そして、すぐに“気づいた”顔。
結衣は、慌てて笑顔を作った。
「こんにちは。すみません、少し……迷ってしまって」
水野は視線を給湯室の扉へ向け、眉を寄せる。
何か言いかけて、やめた。
「……こちらへ。エレベーターまでご案内します」
「ありがとうございます」
結衣は歩き出した。
足が震えるのを、ヒールで隠すように。
エレベーターの前で、水野が低く言った。
「……あの、奥様。社内の噂は……」
結衣は首を振った。
聞きたくない。
止めてほしい。
でも、止めてもらっても、結局“現実”は変わらない気がした。
「……大丈夫です」
大丈夫じゃない。
でも、そう言うしかない。
エレベーターの扉が開く。
結衣が乗り込むと、水野は一歩引いて頭を下げた。
「……失礼いたします」
扉が閉まる。
鏡に映った自分の顔が、白い。
結衣は、やっと息を吐いた。
(私、否定できない)
噂が“決定打”になった。
目撃が、香りが、沈黙が、すべて噂と一本の線になって繋がってしまった。
――夫は、私にだけ優しくない。
その結論が、もう揺らがない場所まで、落ちていく。

