あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

 結衣は、行くつもりなんてなかった。

 あの路地裏も。
 あの“知らない女性”のことも。
 考えないようにして、いつも通りに家事をして、いつも通りに「お帰りなさい」を言っていれば――いつか、痛みは薄れると思っていた。

 でも現実は逆だった。
 見なければ見ないほど、想像が増える。
 想像は噂を呼び、噂は確信に変わっていく。

 その日、結衣は義母の頼みで、寄付品の受け取り先へ向かっていた。
 夫人が支援している団体の一つだという。

 住所の書かれたメモには、こうある。

「保護猫シェルター こはるの家」

 結衣は足を止めた。
 胸の奥で、何かが冷たく鳴った。

(……こはる)

 偶然だ。
 同じ名前の人なんていくらでもいる。
 そう思おうとしても、指先が震えた。

 結衣はメモを握りしめ、深呼吸をする。

(ただ、届けるだけ)

 ただの用事。
 恋愛でも、浮気でも、関係ない。

 そう言い聞かせて、路地の先へ進むと――小さな建物が見えた。
 入口に貼られた紙。
 「保護猫 里親募集中」
 猫の写真が何枚も並ぶ。

 結衣の足が止まりかけた、そのときだった。

 建物の前に、黒い車が停まっている。
 見覚えのある車種。
 九条家の運転手が使うのと同じタイプ。

(まさか……)

 心臓が跳ねる。

 ドアが開いた。
 降りてきたのは、運転手の坂口。
 そして――後部座席から、蓮が姿を現した。

 結衣の呼吸が止まる。

(どうして、ここに)

 蓮は周囲を見渡し、建物へ向かう。
 いつものスーツ姿。
 でも、表情がいつもと違う。
 硬いはずの顔が、ほんの少しだけ緩んでいる。

 結衣は柱の影に身を寄せた。
 見てはいけない。
 見てしまえば、戻れない。

 でも、もう遅かった。

 入口のドアが開き、女性が出てきた。

「九条さん!」

 明るい声。
 白いエプロン。
 結衣が路地裏で見た女性――小春だ。

 小春は蓮に駆け寄り、笑顔を見せる。
 その笑顔が、あまりにも自然で、あまりにも近い。

「来てくれたんですね。……ルル、今日すごく頑張ったんですよ」

 小春が抱えていたキャリーケースを少し持ち上げる。
 中から、猫の鳴き声。

 蓮の目が、そこに落ちた瞬間。
 ――結衣は見てしまった。

 蓮が、笑った。

 ほんの一瞬。
 でも確かに、ほどけた笑顔。

「……よかった」

 声も、柔らかい。
 あの雨の路地裏と同じ温度。

 結衣の胸が、ぎゅっと潰れる。

(私には、あの声は出さないのに)

 小春が嬉しそうに言う。

「ルル、九条さんが来ると落ち着くんです。ほんと、不思議」

 落ち着く。
 落ち着く――その言葉が、結衣を刺した。

(私といる時、蓮さんは落ち着いてる?)

 結衣は答えを知らない。
 聞けないから。
 蓮が言わないから。

 蓮はキャリーの前にしゃがみ、指先でそっと網越しに触れた。
 猫が鼻先を寄せる。

「……いい子」

 結衣の喉が熱くなる。
 涙が出そうで、堪えるのに必死だった。

 小春が、自然に蓮の隣にしゃがむ。

「今日ね、ルル、ちょっとだけご飯食べたんです。九条さんのおかげです」

 “おかげ”。
 “ありがとう”。
 小春の声は、蓮にちゃんと届いている。

 蓮が短く頷く。

「……よかった」

 そして、視線が小春へ向く。
 短い。
 でも、その短さに“慣れ”がある。

 結衣の胸の中で、言葉にならないものが膨らむ。

(まるで……恋人みたい)

 違う。
 違うはずなのに。

 小春が笑って、蓮の袖口を軽くつまんだ。

「九条さん、また猫の毛ついてます。ほら、ここ」

 その仕草が、あまりにも自然で。
 夫婦より自然で。

 蓮は嫌がらずに立ち上がる。
 小春は笑いながら、袖を払う。

 結衣はその瞬間を“触れ合い”として受け取ってしまった。

(私には触れないのに)
(私の前では、手が止まるのに)

 蓮が小春へ紙袋を差し出した。

「……これ。ルルに」

「あ、ありがとうございます! 助かります」

 紙袋。
 昨日も一昨日も、蓮が持って帰ってきたもの。

(ここに置いてたんだ)

 結衣は息が詰まった。

 蓮が小春に背を向け、車へ戻りかける。
 その背中に、小春が声をかけた。

「九条さん!」

 蓮が振り向く。

 小春は少し迷ってから、柔らかく言った。

「……無理しすぎないでくださいね」

 その言葉の“親しさ”が、結衣の心を決定的に壊した。

 蓮は一瞬、表情を揺らし――小さく頷いた。

「……ああ」

 たったそれだけのやり取りなのに。
 結衣には、夫婦以上の距離に見えた。

 結衣は買い物袋を握りしめ、爪が痛いのも分からないほど強く握った。

(もう、だめ)

 心の中で何かが崩れた。

 結衣は踵を返した。
 声を出したら泣いてしまう。
 走ったら見つかる。
 だから、静かに、静かに、その場を離れた。

 背後で、蓮の柔らかい声が聞こえた気がした。

「……また来る」

 結衣は、立ち止まらなかった。
 その言葉が誰に向けられたのか――考えたくなかった。

 家へ帰る道で、結衣は自分の胸に手を当てた。

(私は、妻なのに)

 その言葉が、ただの肩書きに思えた。

 夫の“知らない顔”。
 夫の“知らない声”。
 夫の“知らない場所”。

 そして、その真ん中にいるのは――私じゃない