その日は、結衣の兄――朝霧恒一から突然電話が来た。
『結衣、今どこだ?』
「家だけど……どうしたの?」
『近くまで来てる。顔、見たい。……いや、見なきゃだめな気がする』
兄の声は硬かった。
結衣は胸がざわつく。
「分かった。じゃあ、駅前のカフェで……」
『いや。外はやめろ。お前、最近顔色悪い。俺が迎えに行く』
断る間もなく電話は切れた。
結衣はスマホを握りしめ、鏡の前に立つ。
本当に、顔色が悪い。
唇の色が薄くて、目の下が少し暗い。
(私、そんなに……)
外に出るのが怖い。
でも、兄に会えば、少しだけ息ができる気がした。
結衣はコートを羽織り、家を出た。
夜風は冷たく、街灯の光が舗道に薄く伸びている。
門を出て少し歩いたところで、遠くから車のライトが見えた。
黒いセダン。
見慣れた車。
――九条家の車だ。
結衣の足が止まる。
胸が跳ねる。
(蓮さん……? まだ会社のはずじゃ)
車はゆっくりと路肩に寄り、停まった。
運転席にいるのは運転手の坂口だ。
そして、後部座席のドアが開く。
先に降りたのは、女性だった。
ヒールがアスファルトを打つ音。
タイトなコート。細い足首。
結衣は息を呑んだ。
(……誰)
街灯の下で、女性が振り向く。
横顔が見える。
見覚えのない顔――でも、会社で見るような“綺麗に整えられた”女性だった。
続いて、後部座席から蓮が降りる。
スーツの肩は少し崩れていて、ネクタイが緩んでいる。
疲れているのが分かる。
それなのに結衣は、疲れを心配するより先に、胸の奥が凍るのを感じた。
(……一緒に、乗ってた)
女性が何かを言って、蓮が短く頷く。
声は聞こえない。
でも、距離が近い。
“二人で会食”の想像が、目の前の現実に変わってしまう。
蓮が女性の肩に手を添える――ように見えた。
実際には、車のドアが閉まりそうで、軽く押さえただけかもしれない。
それでも結衣の心は、そこだけを切り取ってしまう。
(触れてる)
あの人には、触れる。
私には、触れないのに。
結衣の視界が、一瞬暗くなった。
女性が小さく頭を下げ、車に戻る。
坂口がドアを閉める。
車はまた走り出し、角を曲がって消えた。
残されたのは、蓮。
蓮は玄関へ向かって歩き出す。
結衣はそこに立ち尽くして、声が出なかった。
(今、私は……何を見たの)
背中に向かって「お帰りなさい」と言えばいい。
妻なら。
でも、喉が固まって動かない。
蓮がふと足を止め、こちらを見た。
街灯の下で、目が合う。
「……結衣?」
驚いたような声。
結衣の胸が、嫌な形に跳ねる。
(驚くってことは、見られたくなかったってことだよね)
結衣は笑おうとした。
でも、頬が動かない。
「……お帰りなさい」
やっと出た声は、震えていた。
蓮は眉を寄せた。
「……どうした。外に出るな。寒いだろ」
優しい言葉の形。
でも結衣は、その優しさを受け取れなかった。
(寒いんじゃない。痛いんだよ)
結衣は、胸の奥がぎゅっと縮むのを感じながら、無理に言った。
「……会食、二件って聞いたから」
蓮の目が僅かに揺れる。
その反応だけで、結衣はさらに冷える。
責めたいのではない。
ただ知りたいだけなのに、蓮はいつも“守り”に入る。
結衣は指先を握りしめた。
「……今の方は、誰ですか」
言ってしまった。
言葉が空気を切る音がした気がした。
蓮は数秒、黙った。
その沈黙が、結衣にとっては致命的だった。
(やっぱり、言えない)
蓮が低く答える。
「……取引先だ。送っただけだ」
送っただけ。
でも“送った”という行為そのものが、結衣の心を刺す。
「……送る必要、あったんですか」
結衣の声が、冷たくなる。
止められない。
蓮の眉がわずかに寄る。
「……危ない時間だ」
その言葉が、結衣を余計に苦しくさせた。
(私には? 私が一人で待ってる夜は危なくないの?)
結衣は唇を噛んだ。
涙が落ちそうになるのを、必死で堪える。
「……そうですよね。優しいですね」
皮肉に聞こえる自分の声が嫌だった。
でも、止められなかった。
蓮の目が、ほんの少しだけ痛そうに揺れた。
結衣はそれを見てしまって、また苦しくなる。
蓮は一歩だけ近づいた。
結衣は反射で半歩下がってしまう。
その距離が、二人の答えみたいだった。
「……結衣」
蓮が名前を呼ぶ。
雨の路地裏で聞いたような柔らかさはない。
いつもの硬い声。
「……家に入れ」
結衣は頷いた。
頷くしかない。
玄関に入っても、結衣の胸の中の冷たさは消えなかった。
“車の中に、女の人がいた”
その映像が、何度も頭の中で再生される。
――見てしまった。
もう、戻れない気がした。
『結衣、今どこだ?』
「家だけど……どうしたの?」
『近くまで来てる。顔、見たい。……いや、見なきゃだめな気がする』
兄の声は硬かった。
結衣は胸がざわつく。
「分かった。じゃあ、駅前のカフェで……」
『いや。外はやめろ。お前、最近顔色悪い。俺が迎えに行く』
断る間もなく電話は切れた。
結衣はスマホを握りしめ、鏡の前に立つ。
本当に、顔色が悪い。
唇の色が薄くて、目の下が少し暗い。
(私、そんなに……)
外に出るのが怖い。
でも、兄に会えば、少しだけ息ができる気がした。
結衣はコートを羽織り、家を出た。
夜風は冷たく、街灯の光が舗道に薄く伸びている。
門を出て少し歩いたところで、遠くから車のライトが見えた。
黒いセダン。
見慣れた車。
――九条家の車だ。
結衣の足が止まる。
胸が跳ねる。
(蓮さん……? まだ会社のはずじゃ)
車はゆっくりと路肩に寄り、停まった。
運転席にいるのは運転手の坂口だ。
そして、後部座席のドアが開く。
先に降りたのは、女性だった。
ヒールがアスファルトを打つ音。
タイトなコート。細い足首。
結衣は息を呑んだ。
(……誰)
街灯の下で、女性が振り向く。
横顔が見える。
見覚えのない顔――でも、会社で見るような“綺麗に整えられた”女性だった。
続いて、後部座席から蓮が降りる。
スーツの肩は少し崩れていて、ネクタイが緩んでいる。
疲れているのが分かる。
それなのに結衣は、疲れを心配するより先に、胸の奥が凍るのを感じた。
(……一緒に、乗ってた)
女性が何かを言って、蓮が短く頷く。
声は聞こえない。
でも、距離が近い。
“二人で会食”の想像が、目の前の現実に変わってしまう。
蓮が女性の肩に手を添える――ように見えた。
実際には、車のドアが閉まりそうで、軽く押さえただけかもしれない。
それでも結衣の心は、そこだけを切り取ってしまう。
(触れてる)
あの人には、触れる。
私には、触れないのに。
結衣の視界が、一瞬暗くなった。
女性が小さく頭を下げ、車に戻る。
坂口がドアを閉める。
車はまた走り出し、角を曲がって消えた。
残されたのは、蓮。
蓮は玄関へ向かって歩き出す。
結衣はそこに立ち尽くして、声が出なかった。
(今、私は……何を見たの)
背中に向かって「お帰りなさい」と言えばいい。
妻なら。
でも、喉が固まって動かない。
蓮がふと足を止め、こちらを見た。
街灯の下で、目が合う。
「……結衣?」
驚いたような声。
結衣の胸が、嫌な形に跳ねる。
(驚くってことは、見られたくなかったってことだよね)
結衣は笑おうとした。
でも、頬が動かない。
「……お帰りなさい」
やっと出た声は、震えていた。
蓮は眉を寄せた。
「……どうした。外に出るな。寒いだろ」
優しい言葉の形。
でも結衣は、その優しさを受け取れなかった。
(寒いんじゃない。痛いんだよ)
結衣は、胸の奥がぎゅっと縮むのを感じながら、無理に言った。
「……会食、二件って聞いたから」
蓮の目が僅かに揺れる。
その反応だけで、結衣はさらに冷える。
責めたいのではない。
ただ知りたいだけなのに、蓮はいつも“守り”に入る。
結衣は指先を握りしめた。
「……今の方は、誰ですか」
言ってしまった。
言葉が空気を切る音がした気がした。
蓮は数秒、黙った。
その沈黙が、結衣にとっては致命的だった。
(やっぱり、言えない)
蓮が低く答える。
「……取引先だ。送っただけだ」
送っただけ。
でも“送った”という行為そのものが、結衣の心を刺す。
「……送る必要、あったんですか」
結衣の声が、冷たくなる。
止められない。
蓮の眉がわずかに寄る。
「……危ない時間だ」
その言葉が、結衣を余計に苦しくさせた。
(私には? 私が一人で待ってる夜は危なくないの?)
結衣は唇を噛んだ。
涙が落ちそうになるのを、必死で堪える。
「……そうですよね。優しいですね」
皮肉に聞こえる自分の声が嫌だった。
でも、止められなかった。
蓮の目が、ほんの少しだけ痛そうに揺れた。
結衣はそれを見てしまって、また苦しくなる。
蓮は一歩だけ近づいた。
結衣は反射で半歩下がってしまう。
その距離が、二人の答えみたいだった。
「……結衣」
蓮が名前を呼ぶ。
雨の路地裏で聞いたような柔らかさはない。
いつもの硬い声。
「……家に入れ」
結衣は頷いた。
頷くしかない。
玄関に入っても、結衣の胸の中の冷たさは消えなかった。
“車の中に、女の人がいた”
その映像が、何度も頭の中で再生される。
――見てしまった。
もう、戻れない気がした。

