翌週の月曜日から、蓮の予定表はさらに見えなくなった。
朝は早く、夜は遅い。
「今日は会食」
それだけが短い通知で届く。
会食。
たった二文字なのに、結衣の胸の中でどんどん形を変える。
(誰と?)
(何人で?)
(本当に仕事?)
聞けない。
聞いたら、“疑ってる妻”になってしまう。
聞いたら、また「やめろ」と言われる気がする。
結衣はリビングのカレンダーに、そっと印をつけていった。
会食。会食。会食。
数が増えるほど、心が痩せる。
その日、結衣は義母から頼まれた書類の件で、本社へ電話をかけた。
蓮本人にではなく、秘書室へ。
呼び出し音が三回鳴って、凛とした声が出る。
『九条副社長室、望月でございます』
結衣は胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。
望月の声はいつも整っていて、感情の入る余地がない。
「あの……朝霧結衣です。副社長に少しだけ、お伺いしたいことが……」
『奥様でいらっしゃいますね。お世話になっております』
丁寧。
でも、扉は閉まっている。
「今夜、会食と聞いたのですが……帰宅は何時頃になるか分かりますか」
言った瞬間、結衣は自分が情けなくなる。
妻なのに。
秘書に、夫の帰宅時間を聞いている。
望月は間を置かずに答えた。
『本日は二件入っておりますので、夜遅くなるかと存じます』
「二件……?」
『はい。恐らく、十一時を過ぎます』
淡々とした声。
予定の説明というより、線引きの宣告。
「……分かりました。ありがとうございます」
結衣が切ろうとしたとき、望月が付け足すように言った。
『奥様。副社長は最近、案件が立て込んでおりますので』
その言い方が、結衣の胸を刺した。
“だから奥様は黙って待て”と聞こえる。
「……はい」
『お身体に障りますので、お休みくださいませ』
優しい言葉の形をしているのに、結衣の胸は冷えた。
望月はいつだって“副社長の味方”だ。
結衣に向ける言葉も、結局は副社長のためのもの。
電話を切ったあと、結衣はスマホを握ったまま動けなかった。
二件。
会食が二件。
(誰と?)
頭の中に、白石さやの笑顔が浮かぶ。
次に、相良由梨のような、取引先の女性を勝手に想像する。
そして最後に、小春という“知らない名前”が残る。
結衣は冷蔵庫を開けた。
作っておいた夕食の材料が並ぶ。
それが急に、無意味に思えた。
(待っても、来ない)
来る。帰ってくる。
分かっているのに、心が信じない。
夜十時。
結衣はテーブルの上の料理にラップをかけた。
湯呑みを片付けた。
テレビの音を消した。
部屋が静かになるほど、耳が勝手に“想像の音”を拾い始める。
(会食の席で、笑ってるのかな)
(隣に座った女性に、あの柔らかい声を……)
雨の路地裏の声が蘇る。
結衣は膝を抱えた。
十一時を過ぎても、蓮は帰ってこない。
スマホが震えた。
『遅くなる。先に寝ろ』
いつも通りの文章。
いつも通りの、何も説明のない通知。
結衣は、画面を見つめた。
(……遅くなる理由、聞いちゃだめ?)
親友の真琴の言葉が浮かぶ。
『聞きなよ。結衣は我慢しすぎる』
結衣は指を動かした。
震えながら、短い返信を打つ。
『会食、二件って聞きました。大丈夫ですか?』
“誰と?”は書けなかった。
“女?”も書けなかった。
ただ、大丈夫ですか、としか言えない。
送信してしまった瞬間、胸がきゅっと締まる。
返事は、すぐに来た。
『問題ない』
それだけ。
結衣は目を閉じた。
(問題なのは、私の心のほうだよ)
結衣はスマホを伏せ、唇を噛む。
涙が落ちそうになるのを、強引に飲み込んだ。
――会食は、仕事。
頭では分かっている。
でも、夫が自分に何も話さない限り、会食は“空白”だ。
空白は、噂で埋まる。
想像で埋まる。
そして、疑いで埋まっていく。
その頃、玄関の鍵が回る音がした。
結衣は跳ね起きた。
時計を見ると、もう午前零時を回っている。
「……お帰りなさい」
蓮はコートを脱ぎながら、短く言った。
「……ただいま」
そして結衣が息を吸うより先に、蓮のスマホが震えた。
画面の上部に、名前が見えた。
『望月:明日の会議、資料差し替えました』
結衣の胸が、じくっと痛む。
(会食のあとも、望月さん)
蓮は画面を一瞥し、すぐにポケットへしまった。
結衣の視線に気づかないふりをするみたいに。
結衣は笑った。
笑うしかなかった。
「……お疲れ様です。何か食べますか?」
「いや。……いい」
蓮は廊下へ向かいかけて、足を止めた。
「……結衣」
呼ばれて、結衣の心が跳ねる。
言ってくれる? 説明してくれる?
期待が、勝手に膨らむ。
でも、蓮の言葉は短かった。
「……寝ろ」
結衣は頷く。
「はい」
蓮は扉の向こうへ消える。
結衣はその背中を見つめたまま、胸の中の空白がまた一つ増えるのを感じた。
――会食は、二件。
私は、何も知らない。
知らないことが、どんどん怖くなる。
朝は早く、夜は遅い。
「今日は会食」
それだけが短い通知で届く。
会食。
たった二文字なのに、結衣の胸の中でどんどん形を変える。
(誰と?)
(何人で?)
(本当に仕事?)
聞けない。
聞いたら、“疑ってる妻”になってしまう。
聞いたら、また「やめろ」と言われる気がする。
結衣はリビングのカレンダーに、そっと印をつけていった。
会食。会食。会食。
数が増えるほど、心が痩せる。
その日、結衣は義母から頼まれた書類の件で、本社へ電話をかけた。
蓮本人にではなく、秘書室へ。
呼び出し音が三回鳴って、凛とした声が出る。
『九条副社長室、望月でございます』
結衣は胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。
望月の声はいつも整っていて、感情の入る余地がない。
「あの……朝霧結衣です。副社長に少しだけ、お伺いしたいことが……」
『奥様でいらっしゃいますね。お世話になっております』
丁寧。
でも、扉は閉まっている。
「今夜、会食と聞いたのですが……帰宅は何時頃になるか分かりますか」
言った瞬間、結衣は自分が情けなくなる。
妻なのに。
秘書に、夫の帰宅時間を聞いている。
望月は間を置かずに答えた。
『本日は二件入っておりますので、夜遅くなるかと存じます』
「二件……?」
『はい。恐らく、十一時を過ぎます』
淡々とした声。
予定の説明というより、線引きの宣告。
「……分かりました。ありがとうございます」
結衣が切ろうとしたとき、望月が付け足すように言った。
『奥様。副社長は最近、案件が立て込んでおりますので』
その言い方が、結衣の胸を刺した。
“だから奥様は黙って待て”と聞こえる。
「……はい」
『お身体に障りますので、お休みくださいませ』
優しい言葉の形をしているのに、結衣の胸は冷えた。
望月はいつだって“副社長の味方”だ。
結衣に向ける言葉も、結局は副社長のためのもの。
電話を切ったあと、結衣はスマホを握ったまま動けなかった。
二件。
会食が二件。
(誰と?)
頭の中に、白石さやの笑顔が浮かぶ。
次に、相良由梨のような、取引先の女性を勝手に想像する。
そして最後に、小春という“知らない名前”が残る。
結衣は冷蔵庫を開けた。
作っておいた夕食の材料が並ぶ。
それが急に、無意味に思えた。
(待っても、来ない)
来る。帰ってくる。
分かっているのに、心が信じない。
夜十時。
結衣はテーブルの上の料理にラップをかけた。
湯呑みを片付けた。
テレビの音を消した。
部屋が静かになるほど、耳が勝手に“想像の音”を拾い始める。
(会食の席で、笑ってるのかな)
(隣に座った女性に、あの柔らかい声を……)
雨の路地裏の声が蘇る。
結衣は膝を抱えた。
十一時を過ぎても、蓮は帰ってこない。
スマホが震えた。
『遅くなる。先に寝ろ』
いつも通りの文章。
いつも通りの、何も説明のない通知。
結衣は、画面を見つめた。
(……遅くなる理由、聞いちゃだめ?)
親友の真琴の言葉が浮かぶ。
『聞きなよ。結衣は我慢しすぎる』
結衣は指を動かした。
震えながら、短い返信を打つ。
『会食、二件って聞きました。大丈夫ですか?』
“誰と?”は書けなかった。
“女?”も書けなかった。
ただ、大丈夫ですか、としか言えない。
送信してしまった瞬間、胸がきゅっと締まる。
返事は、すぐに来た。
『問題ない』
それだけ。
結衣は目を閉じた。
(問題なのは、私の心のほうだよ)
結衣はスマホを伏せ、唇を噛む。
涙が落ちそうになるのを、強引に飲み込んだ。
――会食は、仕事。
頭では分かっている。
でも、夫が自分に何も話さない限り、会食は“空白”だ。
空白は、噂で埋まる。
想像で埋まる。
そして、疑いで埋まっていく。
その頃、玄関の鍵が回る音がした。
結衣は跳ね起きた。
時計を見ると、もう午前零時を回っている。
「……お帰りなさい」
蓮はコートを脱ぎながら、短く言った。
「……ただいま」
そして結衣が息を吸うより先に、蓮のスマホが震えた。
画面の上部に、名前が見えた。
『望月:明日の会議、資料差し替えました』
結衣の胸が、じくっと痛む。
(会食のあとも、望月さん)
蓮は画面を一瞥し、すぐにポケットへしまった。
結衣の視線に気づかないふりをするみたいに。
結衣は笑った。
笑うしかなかった。
「……お疲れ様です。何か食べますか?」
「いや。……いい」
蓮は廊下へ向かいかけて、足を止めた。
「……結衣」
呼ばれて、結衣の心が跳ねる。
言ってくれる? 説明してくれる?
期待が、勝手に膨らむ。
でも、蓮の言葉は短かった。
「……寝ろ」
結衣は頷く。
「はい」
蓮は扉の向こうへ消える。
結衣はその背中を見つめたまま、胸の中の空白がまた一つ増えるのを感じた。
――会食は、二件。
私は、何も知らない。
知らないことが、どんどん怖くなる。

