その夜、蓮は珍しく早く帰ってきた。
九時前。
結衣が夕食の皿を並べ終えた頃、鍵の音がして、胸が小さく跳ねた。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
蓮はネクタイを緩め、コートを脱ぎながら短く答えた。
いつもと同じ。
でも、今日は“早い”だけで、結衣の心は少しだけ期待してしまう。
(今日は、少し話せるかも)
結衣がコートを受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間だった。
ふわり、と――甘い香りが鼻先をかすめた。
柔らかくて、上品で、どこか色っぽい匂い。
結衣が持っている柔軟剤の匂いではない。
台所の匂いでもない。
知らない香り。
結衣の手が止まった。
「……結衣?」
蓮が怪訝そうに結衣を見る。
結衣は慌てて笑顔を作り、コートを受け取る。
「い、いえ。……お疲れさまです」
胸の奥が、冷たくなる。
息を吸うたび、香りが喉に刺さる。
(香水……?)
白石さやの赤い口紅が脳裏に浮かぶ。
望月玲香の涼しい目が浮かぶ。
そして、路地裏の小春――。
結衣はコートをハンガーに掛けようとして、もう一度香りを嗅いでしまう。
確認なんてしなければよかったのに。
甘い。
確かに甘い。
結衣の指先が冷たくなり、ハンガーが小さく鳴った。
蓮は靴下を脱ぎながら、淡々と言った。
「……飯、あるか」
「……はい。すぐに」
結衣はキッチンへ逃げるように向かった。
包丁を持つ手が震えそうで、ぎゅっと握りしめる。
(違う、って思いたい)
でも、頭は勝手に繋げていく。
(社内写真で近かった白石さん)
(夜でも連絡が来る望月さん)
(“小春”って名前の知らない女性)
香りは、視覚より残酷だ。
証拠みたいに、身体に残る。
結衣は温め直した皿を運び、蓮の前に置く。
席についた蓮が、箸を取る。
「……いただきます」
「……いただきます」
結衣も箸を取った。
でも、喉が渇いて味がしない。
沈黙が続く。
結衣は一度だけ、勇気を出した。
「……今日、撮影だったんですね」
蓮の箸が止まる。
「……見たのか」
たったそれだけ。
“どうだった”も、“来てくれてありがとう”もない。
結衣は笑って頷いた。
「はい。……お忙しそうでした」
蓮は視線を落とし、淡々と食べる。
結衣の胸の中で、香りだけが膨らむ。
(聞かなきゃ)
聞かなきゃ、終わらない。
でも、聞いたら壊れる。
その間で、結衣は息ができない。
結衣は箸を置いてしまった。
「……蓮さん」
蓮が顔を上げる。
結衣はその目を見て、言葉を選んだ。
直接は言えない。
でも、遠回しでもいいから。
「……お仕事、大変ですよね。……色んな人と、近くで……」
結衣の声が、小さく震えた。
蓮は眉を寄せた。
「……何が言いたい」
その言い方が、冷たく聞こえてしまう。
結衣は慌てて首を振った。
「違うんです。責めたいんじゃなくて……」
結衣は息を吸った。
もう一度、コートの甘い香りが蘇る。
思わず口から出てしまった。
「……香りが、したんです」
蓮の目が僅かに揺れた。
「……香り?」
「……あなたの、上着から。甘い匂いが……」
言ってしまった。
言った瞬間、結衣の胸が痛くなる。
(こんなこと言う妻、嫌われる)
蓮はしばらく黙っていた。
その沈黙が、結衣には“答え”に見えた。
――やっぱり。
隠してる。
図星だから、言えない。
結衣の指が震える。
ようやく蓮が口を開いた。
「……香水じゃない」
結衣は息を止める。
否定されたのに、救われない。
「……じゃあ、何ですか」
結衣の声は、思ったよりも強く出た。
蓮の目が少しだけ大きくなる。
結衣はすぐに後悔した。
蓮は視線を逸らしたまま、低く言う。
「……消臭だ」
「……消臭?」
「猫の。……濡れてたから。匂いがついた」
結衣の頭が真っ白になる。
(猫……?)
猫用の消臭スプレー。
それなら、甘い匂いがするものもある。
理屈は分かる。
でも――結衣の心は納得しない。
(猫って、どこで?)
(誰と?)
“猫”は、結衣の中で既に“女性”と結びついている。
結衣は笑おうとした。
でも笑えなかった。
「……そう、なんですね」
蓮は、結衣の顔を見た。
ほんの少しだけ、困ったような目をした。
「……疑ってるのか」
結衣の喉が詰まる。
疑ってないと言えば嘘になる。
疑ってると言えば終わる。
結衣は視線を落とし、かすれた声で言った。
「……疑いたく、ないです」
蓮の手が止まった。
彼の指先が、わずかに強張る。
「……なら、やめろ」
その言葉が、結衣の心を一番深く傷つけた。
やめろ。
“説明する”じゃなくて、“疑うな”だけ。
(私が悪いの?)
結衣は笑った。
泣く前に笑う癖が、また出た。
「……ごめんなさい」
蓮は何か言いかけて、飲み込んだ。
そして、いつも通り立ち上がる。
「……明日も早い。先に寝ろ」
結衣は頷いた。
頷くしかできなかった。
「……はい」
蓮が廊下へ消える。
扉が閉まる音がする。
結衣は、食卓に一人残された。
甘い香りが、まだ鼻の奥に残っている。
それは“猫の消臭”なのに、
結衣には“知らない女の気配”にしか思えなかった。
(猫のことも、女のことも……結局、私は何も知らない)
知らない。
知らないことが、怖い。
結衣はカップを握りしめ、こぼれそうな涙を堪えた。
九時前。
結衣が夕食の皿を並べ終えた頃、鍵の音がして、胸が小さく跳ねた。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
蓮はネクタイを緩め、コートを脱ぎながら短く答えた。
いつもと同じ。
でも、今日は“早い”だけで、結衣の心は少しだけ期待してしまう。
(今日は、少し話せるかも)
結衣がコートを受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間だった。
ふわり、と――甘い香りが鼻先をかすめた。
柔らかくて、上品で、どこか色っぽい匂い。
結衣が持っている柔軟剤の匂いではない。
台所の匂いでもない。
知らない香り。
結衣の手が止まった。
「……結衣?」
蓮が怪訝そうに結衣を見る。
結衣は慌てて笑顔を作り、コートを受け取る。
「い、いえ。……お疲れさまです」
胸の奥が、冷たくなる。
息を吸うたび、香りが喉に刺さる。
(香水……?)
白石さやの赤い口紅が脳裏に浮かぶ。
望月玲香の涼しい目が浮かぶ。
そして、路地裏の小春――。
結衣はコートをハンガーに掛けようとして、もう一度香りを嗅いでしまう。
確認なんてしなければよかったのに。
甘い。
確かに甘い。
結衣の指先が冷たくなり、ハンガーが小さく鳴った。
蓮は靴下を脱ぎながら、淡々と言った。
「……飯、あるか」
「……はい。すぐに」
結衣はキッチンへ逃げるように向かった。
包丁を持つ手が震えそうで、ぎゅっと握りしめる。
(違う、って思いたい)
でも、頭は勝手に繋げていく。
(社内写真で近かった白石さん)
(夜でも連絡が来る望月さん)
(“小春”って名前の知らない女性)
香りは、視覚より残酷だ。
証拠みたいに、身体に残る。
結衣は温め直した皿を運び、蓮の前に置く。
席についた蓮が、箸を取る。
「……いただきます」
「……いただきます」
結衣も箸を取った。
でも、喉が渇いて味がしない。
沈黙が続く。
結衣は一度だけ、勇気を出した。
「……今日、撮影だったんですね」
蓮の箸が止まる。
「……見たのか」
たったそれだけ。
“どうだった”も、“来てくれてありがとう”もない。
結衣は笑って頷いた。
「はい。……お忙しそうでした」
蓮は視線を落とし、淡々と食べる。
結衣の胸の中で、香りだけが膨らむ。
(聞かなきゃ)
聞かなきゃ、終わらない。
でも、聞いたら壊れる。
その間で、結衣は息ができない。
結衣は箸を置いてしまった。
「……蓮さん」
蓮が顔を上げる。
結衣はその目を見て、言葉を選んだ。
直接は言えない。
でも、遠回しでもいいから。
「……お仕事、大変ですよね。……色んな人と、近くで……」
結衣の声が、小さく震えた。
蓮は眉を寄せた。
「……何が言いたい」
その言い方が、冷たく聞こえてしまう。
結衣は慌てて首を振った。
「違うんです。責めたいんじゃなくて……」
結衣は息を吸った。
もう一度、コートの甘い香りが蘇る。
思わず口から出てしまった。
「……香りが、したんです」
蓮の目が僅かに揺れた。
「……香り?」
「……あなたの、上着から。甘い匂いが……」
言ってしまった。
言った瞬間、結衣の胸が痛くなる。
(こんなこと言う妻、嫌われる)
蓮はしばらく黙っていた。
その沈黙が、結衣には“答え”に見えた。
――やっぱり。
隠してる。
図星だから、言えない。
結衣の指が震える。
ようやく蓮が口を開いた。
「……香水じゃない」
結衣は息を止める。
否定されたのに、救われない。
「……じゃあ、何ですか」
結衣の声は、思ったよりも強く出た。
蓮の目が少しだけ大きくなる。
結衣はすぐに後悔した。
蓮は視線を逸らしたまま、低く言う。
「……消臭だ」
「……消臭?」
「猫の。……濡れてたから。匂いがついた」
結衣の頭が真っ白になる。
(猫……?)
猫用の消臭スプレー。
それなら、甘い匂いがするものもある。
理屈は分かる。
でも――結衣の心は納得しない。
(猫って、どこで?)
(誰と?)
“猫”は、結衣の中で既に“女性”と結びついている。
結衣は笑おうとした。
でも笑えなかった。
「……そう、なんですね」
蓮は、結衣の顔を見た。
ほんの少しだけ、困ったような目をした。
「……疑ってるのか」
結衣の喉が詰まる。
疑ってないと言えば嘘になる。
疑ってると言えば終わる。
結衣は視線を落とし、かすれた声で言った。
「……疑いたく、ないです」
蓮の手が止まった。
彼の指先が、わずかに強張る。
「……なら、やめろ」
その言葉が、結衣の心を一番深く傷つけた。
やめろ。
“説明する”じゃなくて、“疑うな”だけ。
(私が悪いの?)
結衣は笑った。
泣く前に笑う癖が、また出た。
「……ごめんなさい」
蓮は何か言いかけて、飲み込んだ。
そして、いつも通り立ち上がる。
「……明日も早い。先に寝ろ」
結衣は頷いた。
頷くしかできなかった。
「……はい」
蓮が廊下へ消える。
扉が閉まる音がする。
結衣は、食卓に一人残された。
甘い香りが、まだ鼻の奥に残っている。
それは“猫の消臭”なのに、
結衣には“知らない女の気配”にしか思えなかった。
(猫のことも、女のことも……結局、私は何も知らない)
知らない。
知らないことが、怖い。
結衣はカップを握りしめ、こぼれそうな涙を堪えた。

