あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

 結衣は、会社の「家族枠」にいる。

 それは社外向けの広報誌や、取引先への挨拶文で“副社長夫人”として名前が載る、ただの席。
 けれど社内に足を踏み入れると、結衣は急に透明になる。

 その日、結衣は九条家の用事で本社へ来ていた。
 義母から頼まれた書類を届けるだけ。
 それなのに、受付を通るだけで背筋が固くなる。

(望月さんに会いたくない)

 そう思った瞬間、背後から声がした。

「あれ……朝霧さん?」

 振り向くと、背の高い女性が立っていた。
 艶のある髪、整えられたメイク、胸元に光る社員証――広報部の白石さや。

 結衣は社内資料で見た顔を思い出し、自然に緊張した。

「……こんにちは。突然すみません」

「いえいえ! 副社長の奥様ですよね。お会いできて嬉しいです」

 白石は人懐っこく笑った。
 けれど、その笑顔が“強い”ことも結衣はすぐに分かった。
 社内で生きてきた人の、迷いのない笑顔。

「ちょうど良かった。実は今日、副社長の撮影があるんです」

「撮影……?」

「はい。取引先向けのパンフレット用で。副社長の“顔”が必要で」

 白石は軽い調子で言いながら、結衣の腕をそっと引いた。

「よかったら少しだけ見ていきません? 奥様も、どんな感じか知っておいた方が安心ですよ」

 安心。
 その言葉につられて、結衣は頷いてしまった。

 広報フロアの奥に簡易スタジオが組まれていた。
 ライト、反射板、カメラ、背景パネル。
 人が行き交い、笑い声が飛び、空気が忙しく動いている。

 結衣は端に立ち、邪魔にならないように小さく息をした。

「副社長、こちらです。少しだけ角度を――」

 白石の声が、はっきり通る。

 視線の先に、蓮がいた。

 黒いスーツを着た蓮は、ここでは完全に“主役”だった。
 誰もが彼の動きに合わせる。
 蓮は淡々と立ち位置を変え、指示に従って視線を動かす。

 結衣は胸の奥が苦しくなるのを感じた。

(会社の蓮さんは、こんなに自然に笑うんだ)

 カメラマンが言った。

「副社長、少しだけ柔らかく。もう少し口角を」

 蓮の口元が微かに上がる。
 それは家で見せるものより“形”としての笑みだけれど、結衣はそれでも羨ましくて、目を逸らした。

 白石が蓮の前へ出た。

「副社長、次は“広報との並び”で撮りますね。こちらに一歩――」

 白石は自然に蓮の隣へ立った。
 距離が近い。
 肩が触れそうなほど。

 結衣の喉が乾く。

(……近い)

 それは仕事だ。分かっている。
 けれど――見た目は、どうしようもなく“お似合い”に見えた。

 白石が笑う。

「副社長、もう少しこちらを。はい、そのまま。完璧です」

 蓮は白石の指示に従って、少しだけ身体の向きを変える。
 白石の髪が、ふわりと肩にかかる。
 白石はそれを何気なく耳にかけた。

 その仕草に、結衣は妙に息が止まった。

(私……あんな風に自然に、隣に立ったことある?)

 夫婦なのに。
 妻なのに。
 隣に立つことが“難しい”。

 カメラのシャッター音が続く。

「いいですね! お二人、並ぶと本当に絵になります」

 その一言が、結衣の胸に刺さった。

 ――お二人。
 まるで、夫婦みたいに。

 結衣の耳の奥が熱くなった。
 見ているだけなのに、恥ずかしくて、惨めで、視界が滲む。

 撮影が終わり、スタッフが散っていく。
 白石が結衣に気づいて駆け寄った。

「奥様、見てました? 副社長って、ほんと格好いいですよね!」

 結衣は笑おうとして、上手くいかなかった。

「……ええ」

 白石は悪気なく続ける。

「副社長、普段はクールなのに、仕事だとちゃんと“見せる顔”ありますよね。ギャップっていうか」

 ギャップ。
 結衣の胸が、きゅっと縮んだ。

(猫にだけ優しい声)
(会社で見せる顔)
(私の前だけ、いつも硬い)

 白石は、さらに無邪気に笑う。

「奥様が羨ましいです。毎日あの方と一緒なんて」

 一緒。
 結衣は胸の中でその言葉を繰り返す。

(本当に、一緒なのかな)

 そのとき、蓮がこちらへ歩いてきた。
 白石がすぐに姿勢を正し、慣れた声で言う。

「副社長、お疲れさまでした。次の資料は望月さんに共有済みです」

「ああ」

 蓮は短く返し、結衣を見た。
 視線が合う。

 結衣は、そこで初めて“妻”として立てる気がして、胸が痛くなる。

「……来てたのか」

 その言い方が、淡々としているのに、なぜか責められた気がした。
 結衣は慌てて首を振る。

「えっと……用事があって。すぐ帰ります」

 蓮は少しだけ眉を寄せた。
 言いたいことがありそうなのに、言わない顔。

 白石が間に入るように微笑んだ。

「奥様、またぜひ。今度はご夫婦で撮影もいいかもですね」

 ご夫婦で。
 その言葉が、皮肉に聞こえてしまう自分が嫌だった。

 結衣は小さく頭を下げた。

「……ありがとうございます」

 エレベーターへ向かう廊下で、背後から誰かの声が聞こえた。

「ねえ、今の奥様? ……なんか、地味じゃない?」
「副社長の隣、あの人じゃなくて白石さんの方がしっくりくるよね」

 笑い声。

 結衣は足を止めずに歩いた。
 止まったら、崩れてしまうから。

 鏡張りの壁に映る自分が、いつもより小さく見えた。

(私の席は、どこ)

 エレベーターの扉が閉まる。
 その瞬間、結衣の胸の中で、噂がまた一つ根を張った。