三月の夜は、驚くほど静かだった。
病室の窓の外では、春を告げる風が木々を揺らし、夜空には薄く霞がかかった月が浮かんでいる。
私の心臓は、もう自分のものではないような、別の生命体としての鼓動を刻んでいた。
一呼吸ごとに、胸の奥で蕾が震え、花弁が心壁を撫でる。
痛みはもう、痛みではなく、重い眠気のような感覚へと変わっていた。
「⋯⋯ねえ、奏斗。⋯⋯見せて」
私は、隣に座る奏斗の腕を引いた。
奏斗は、肩を私に預け、首から下げたカメラを手に取った。
液晶画面の青白い光が、暗い病室の中に思い出を映し出し始める。
「いいよ」
奏斗の指が、小咲菜ダイヤルを回す。
最初に映し出されたのは、私が寝ている顔だった。
「これいつ撮ったの?」
「知り合って二日目くらいかな。屋上で、咲菜が寝てた時のやつ」
画面の中の私は、暖かな日差しの中で、無防備にまぶたを閉じていた。
死を宣告されたばかりの、あの絶望の淵にいたはずの私。
でも、レンズ越しに見るその横顔は、ただ穏やかな夢を見ている少女そのものだった。
「最初に会った時の写真はないの?」
「ああ、あれか。⋯⋯消したよ」
「えっ、なんで?」
「⋯⋯咲菜は、笑ってる方がいいから。僕のカメラには、綺麗な咲菜と、笑ってる咲菜だけでいいんだ」
奏斗が小さく笑って、次の写真に移した。
一気に画面が青く染まる。水族館のトンネル。
頭上を優雅に泳ぐエイと、それを見上げて子供のように口を開けている私の姿。
「水族館、楽しかったね。魚たちの写真より、咲菜の写真の方が多いんだよ、実は」
私は、重い腕を伸ばして、ベッド横のテレビ台の引き出しを開けた。
カサリ、と音がして、私の指先に触れたのは、小咲菜、けれど確かなプラスチックの感触。
「⋯⋯ほら。⋯⋯今も、持ってるよ」
取り出したのは、あの時買った、たこのすけのキーホルダー。
奏斗はそれを見て、目を細めた。
「⋯⋯そっか。⋯⋯僕のも、ここにあるよ」
奏斗は自分のスマホについた、対になるタコの助を指で弾いた。
カチリ、と小咲菜音が響く。
二つのタコが、この白い病室で再会したみたいに、仲良く並んで揺れていた。
写真はさらに進む。
聖夜の夜。
街中が光の海に沈んだ、あの日。
画面いっぱいに広がるイルミネーションの輝き。
その光の粒子を瞳に映して、遠くを見つめる私の横顔。
「⋯⋯綺麗。⋯⋯私、こんな顔してたんだ」
「うん。⋯⋯世界中のどの電飾よりも、この時の咲菜の方が、ずっと光ってた」
そして、次に映し出されたのは、お菓子屋さんの横で、リスみたいに頬袋を膨らませて、ショコラスティックを食べている私の、決定的な瞬間。
「⋯⋯っ、ふふ⋯⋯っ!」
奏斗が、堪えきれずに声を漏らして笑い出した。
肩を震わせ、必死に笑い声を押し殺している。
「な、なに笑ってるの、奏斗!」
「いや、⋯⋯ごめん。⋯⋯やっぱり、何度見ても⋯⋯リスにしか見えなくて⋯⋯。咲菜、本当に⋯⋯いい顔するよなぁ」
他の誰かに見られる前に消してほしい。
でも、消してほしくないな。
奏斗のカメラの中で生きている私を残しておきたい。

