夕闇が部屋の隅々まで溶け込み、私の心臓が刻む歪な鼓動だけが、時計の秒針のように響いていた。
体温はますます上がり、指先一つ動かすのにも、泥の中を泳ぐような重苦しさが伴う。でも、私はまだ、眠るわけにはいかなかった。
廊下の向こうからは、バターと砂糖が焦げたような、香ばしくもどこか危うい香りが漂っている。
ガラリとドアが開くと、そこには紙袋を抱えた持った奏斗が立っていた。
「咲菜、起きてる?」
「お疲れ様。⋯⋯すごい匂いだけど、大丈夫だった?」
私がクスクスと笑うと、奏斗は「いやぁ⋯⋯」と照れくさそうに頭を掻きながら、大切そうに抱えていた小さな紙袋をベッドの脇に置いた。
「これ。⋯⋯ちょっと、見た目はアレだけど。約束のホワイトデー」
私は、その袋を開けた。
中には、星型やハート型に抜かれたクッキーがいくつか入っていた。端っこが少し黒くなっていたり、形が微妙に歪んでいたりするけれど、表面には粉糖が丁寧に振られ、一生懸命に作られたことが伝わってくる。
「わあ⋯⋯! ちゃんとクッキーになってる! すごいよ、奏斗」
「まあ、何とかね。⋯⋯でも、咲菜。食べる前に一個、謝らなきゃい
けないことがあるんだ」
「え? 何?」
奏斗は、自分の胃のあたりをさすりながら、少しだけ青ざめた顔でベッド横の椅子に深く腰掛けた。
「⋯⋯実はさ、失敗作が山ほどできちゃってさ。焦げすぎたやつとか、味が薄いやつとか⋯⋯。捨てるのもったいないから、全部、僕が食べたんだ」
「えっ!? 全部って⋯⋯何枚くらい?」
「⋯⋯数えるのを途中でやめたけど、たぶん三十枚くらいはあるか
な。今、僕の体の半分は失敗作のクッキーでできてると思う。正直⋯⋯もう、何も食べられない。お腹パンパンだわ」
「あははは! 奏斗、何してるの!」
私は堪えきれずに吹き出した。声を上げて笑った。
味のしないクッキーを必死に頬張っている姿を想像するだけで、愛おしくてたまらなくなる。
「笑いすぎだって。⋯⋯でもさ、咲菜にあげるやつは、一番まともな、選りすぐりの精鋭たちだから。安心して食べてよ」
「うん。⋯⋯いただきます」
私は、少し焦げた星型のクッキーを一枚、口に運んだ。
サクッ、という軽い音。
バターの風味が強く、砂糖の甘さがじんわりと広がる。
少し苦いけれど、それは奏斗が私のために、何度も何度もオーブンの前で格闘してくれた、努力の味だった。
「⋯⋯おいしい」
「本当? よかったぁ。頑張った甲斐があったよ」
奏斗は安堵したように息を吐き、私の隣に手を置いた。
私は、彼の少し小麦粉がついた大きな手を、自分の手でそっと包み込んだ。
奏斗の体からも、濃厚な桜の香りが漂っている。
クッキーの甘い匂いに紛れさせてはいるけれど、もう、お互いの終わりが近いことは、触れ合う体温が教えてくれていた。
「奏斗。⋯⋯ありがとう。本当に、ありがとう」
私たちは、焦げたクッキーの香りと、心臓に咲き誇ろうとする桜の香りに包まれながら、残り少ない時間を慈しむように共有した。
「⋯⋯咲菜、大好きだよ。これ、さっきのクッキーにもたっぷり入れといたから」
「うん、すごく感じるよ。奏斗の『大好き』の味」
夜の帳が下り、窓の外には朧月夜が浮かんでいる。
私たちの心臓の中で、最後の蕾がゆっくりと、その花弁を解き始めていた。

