「ちょっと、奏斗! 生クリーム、それじゃあ泡立てすぎ。ボソボソになっちゃうよ」
私はボウルの中を覗き込んで、隣で必死に泡立て器を動かしている奏斗に注意を飛ばした。
真っ白なエプロンに、少しだけ粉がついた鼻先。
病院の調理実習室に差し込む午後の光を浴びて、奏斗は「えー、マジで? 結構難しいなこれ」と、眉を下げて笑った。
「貸して、代わるから。奏斗はあっちのイチゴのヘタを取って、きれいに洗っておいて」
「了解、咲菜先生。イチゴの洗浄なら任せてよ」
泡立て器を受け取るとき、指先が触れ合う。
奏斗が蛇口から水を出し、真っ赤なイチゴを丁寧に洗う音が室内に響く。
今日作るのは、私がずっと作りたかった「イチゴたっぷりのガトーショコラ」。
オーブンの中からは、少しずつチョコレートが焼き上がる香ばしくて甘い匂いが漂い始めていた。
「⋯⋯いい匂い。お腹空いてきちゃうね」
「さっき、卵サンド食べたばっかりでしょ」
「あれはそれ、これはこれ。⋯⋯こうしてるとさ、本当にここが病院だってこと、忘れちゃうよな」
奏斗は洗ったイチゴをキッチンペーパーで拭きながら、ふと窓の外を見た。
鉄格子のない窓の向こうには、冬の終わりの空がどこまでも高く広がっている。
私たちの心臓に咲く桜は、今この瞬間も、静かに、確実に根を伸ばしているはずなのに。
このキッチンを満たす甘い香りは、そんな残酷な現実を、一瞬だけ遠い世界の出来事のように思わせてくれる。
「⋯⋯うん。私も、今が一番幸せかも」
「同じく。咲菜、やっぱりエプロン似合ってるね」
「今更? 奏斗こそ、なんだか給食当番みたい」
「給食当番かよ。せめてイタリアンのシェフとか言ってよ」
奏斗がわざとおどけて、私の肩に自分の肩をぶつけてくる。
「⋯⋯あ、咲菜。これ、一粒食べていい?」
奏斗が、一番形のきれいなイチゴを指で摘まんで、私の口元に持ってきた。
「だめ。飾り付けに使うんだから」
「一個くらい大丈夫だって。ほら、味見も大事な工程だろ?」
悪戯っぽく笑う瞳に負けて、私は小さく口を開けた。
瑞々しい果汁と、春の先取りのような甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。
「⋯⋯ん。甘い」
「でしょ? 僕も一口」
奏斗は自分で自分の口に放り込み、幸せそうに目を細めた。
そんな何気ない動作の一つ一つが、今の私には映画のワンシーンのように輝いて見える。
やがて、オーブンのタイマーが「チン」と軽快な音を鳴らした。
ミトンをはめて、熱々の型を取り出す。
「わあ⋯⋯きれいに焼けてる!」
「すごいじゃん、咲菜。これ、お店で売れるレベルだよ」
少し冷ましたスポンジに、先ほど奏斗と一緒に用意した生クリームとイチゴでデコレーションを施していく。
チョコレートの黒、生クリームの白、そしてイチゴの鮮やかな赤。
程よいサイズにカットしてからお皿の上に置いた。
「完成! ⋯⋯はい、奏斗。遅くなったけど、バレンタインの分」
キラキラと目を輝かせる奏斗は、とっても可愛くて愛おしかった。
すぐにカメラを持ってきて、いろいろな角度からケーキを撮り始める。
「これ食べていい?」
「もちろん。あ、ちょっと待って」
一切れ分他のお皿に移して、ラップを掛ける。
これは、鈴の分だ。
「それ誰かにあげるの?」
少しムスッとした奏斗が恨めしそうに私の手元を見つめていた。
「鈴に⋯⋯病気のことまだ伝えれてないから」
私がそう言うと、奏斗の顔から悪戯っぽい色が消え、穏やかで少しだけ切ない眼差しに変わった。
彼は私の手元にあるラップのかかったケーキを見つめ、それから優しく私の頭に手を置いた。
「そっか。……鈴ちゃん、喜ぶよ。咲菜の作ったケーキだもん」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
親友に真実を隠している罪悪感。
その痛みを無理やり飲み込んで、フォークを二本、テーブルに並べた。
「さあ、食べよ? 焼きたてだよ」
「よし、いただきます!」
奏斗は大きく一口分をカットして、頬張った。
サクッとした表面と、中はしっとりとして濃厚なチョコ。
そこにイチゴの爽やかな酸味が重なる。奏斗は「んーっ!」と声を漏らした。
「……やばい。これ、今まで食べたお菓子の中で一番うまい。咲菜、天才なの?」
「大げさだよ。奏斗がイチゴ洗うの頑張ってくれたからでしょ」
「いや、これは咲菜の愛の魔法だな。チョコの苦味とイチゴの甘さが、こう、絶妙にマッチしてて……」
食レポのようなことを言いながら、彼は幸せそうに次々と口へ運んでいく。
私は、彼が美味しそうに食べる姿をじっと見つめていた。
「……咲菜、食べないの?」
「食べるよ。……ん、本当だ。上手にできたね」
二人で一つの皿を囲み、交互にフォークを動かす。
あの日、スーパーで「新婚さんみたい」とからかわれた時のことを思い出して、今度は私がこっそり笑った。

