死にゆく私は、桜の世界で二度と散らない恋をした。




​二月末。
窓の外では、冬の厳しい寒さが少しずつ緩み、風の中に微かな春の気配が混じり始めていた。


地獄のような休眠打破の激痛を、私たちは奇跡的に、そして同時期に乗り越えた。

もちろん、病気が治ったわけじゃない。

心臓に咲いた桜の根は、以前よりも深く、強固に私たちの命を締め上げている。
けれど、開花直前の凪のようなこの時期、私たちは「無理をしないこと」を条件に、数時間だけの外出許可をもらった。


「⋯⋯なんか、変な感じ。私たちが私服で外を歩いてるなんて」


病院の近くにある大型スーパーの入り口。
私は、入院生活で少し痩せてしまった体に、あの日先輩が褒めてくれた白いコートを羽織っていた。


隣には、少し足取りがゆっくりになったけれど、それでも背筋を伸ばして歩く奏斗がいる。


「本当だね。数週間ぶりなのに、半年くらい経った気がするよ」


先輩はそう言って、私にショッピングカートを差し出した。


今日の目的は、渡しそびれたバレンタインと、少し早いホワイトデーの材料。
病院の調理実習室を借りて、二人でお菓子を作る約束をしたのだ。


「さて、何作るんだっけ。咲菜先生」


「えっと、奏斗が好きなショコラスティックを再現しようかなって。あとは、ホワイトデーのお返しに、クッキーを焼いてくれるって言いましたよね?」


「言った、言った。まずは製菓コーナーね」
​ 

私たちは、賑やかな店内の喧騒に身を投じた。
お惣菜の匂い、特売を知らせる元気な声、カゴを持った主婦たちの慌ただしい動き。


入院前までは当たり前すぎて、退屈だとさえ思っていた日常が、今は眩しくて、涙が出そうなほど愛おしい。


「あ、この小麦粉、安くなってますよ」


「本当だ。でも、こっちの『プロ仕様』ってやつの方が、美味しくできるんじゃない? ほら、僕は初挑戦だし、道具にはこだわろうよ」


「もう、形から入るんだから。⋯⋯じゃあ、チョコはこれ。カカオが高いやつ」


私たちは、棚から一つ一つ、丁寧に材料を選んでカゴに入れていった。
バターの重み、砂糖の袋のざらりとした感触。

それらを確認するたびに、自分がまだ生きていることを実感する。


「⋯⋯ねえ、咲菜。こうしてると、僕たち、新婚さんみたいじゃない?」


「なっ⋯⋯! 何言って、こんなところで!」


不意打ちの言葉に、私は顔を真っ赤にして周囲を見渡した。
先輩はそれを見て、「あはは!」と楽しそうに笑う。


その笑い声は、病室で聞いた掠れたものよりもずっと力強くて、私はそれだけで胸がいっぱいになった。


「あ、見て。イチゴも売ってる。これも乗せちゃう?」


「贅沢でいいかも。⋯⋯ホワイトデーは本当に作ってくれるの? 焦がして食べられない、とか⋯⋯」


「失礼だな。僕はやればできる男だよ。咲菜のレシピ通りに完璧に仕上げてみせるって」


カートを押しながら、私たちはゆっくりと店内を回った。
お互いの体からは、今も隠しきれない桜の香りが漂っている。


けれど、このスーパーの雑多な匂いの中では、それはまるで春を待ちわびる二人の秘密のように溶け込んでいた。


ふと、お菓子コーナーの端にある鏡に、二人の姿が映った。
カートを挟んで笑い合う、どこにでもいる幸せそうな学生のカップル。


その姿が、あまりにも普通で、あまりにも儚くて。


神様、あと少しだけ。

私は、カゴの中の材料をそっと見つめた。
これから作るお菓子は、食べればなくなってしまう。


けれど、こうして二人で「何がいいかな」と悩み、選んだこの時間は、私の中に咲く桜よりもずっと深く、魂に刻まれていく。


「よし、材料は揃ったかな。⋯⋯あ、咲菜。あっちに卵サンドイッチ売ってる。お昼に買って帰ろうか」


「やった!」


「うん、また半分こしような」


先輩は、私の手の上に、自分の温かい手を重ねた。
私たちは、重くなったカゴを大切に抱えてレジへと向かった。