死にゆく私は、桜の世界で二度と散らない恋をした。



私は、駆けつけた看護師さんの制止を振り切り、ふらつく足取りで病室を飛び出した。


「瀬口奏斗の病室はどこですか」――。


辿り着いたのは、一般病棟から少し離れた個室だった。
震える手でドアを開ける。
 
私が部屋に入ったことに気づくと、彼はゆっくり目線をこちらに向け、あの日ショッピングモールで見せたのと同じ、困ったような、けれど優しすぎる笑顔を浮かべた。


「⋯⋯あはは。ついに、バレちゃったか」


​掠れた、けれど穏やかな声。
その瞬間、私の中で何かが決定的に壊れる音がした。


「⋯⋯っ、何が、バレちゃった、ですか⋯⋯!」


叫び声が、静かな病室に響き渡る。
私はベッドの端を掴み、彼に詰め寄った。涙が溢れて視界が歪む。

けれど、その奥にいる彼の「にこっ」とした表情が、今の私には何よりも残酷な暴力に感じられた。


​「⋯⋯なんで、笑ってるんですか」


泣き崩れる私の頭を撫でる、温かい手。

その熱さが、今は何よりも憎らしく、そして愛おしかった。
私は顔を上げ、涙でぐちゃぐちゃになった視線で彼を睨みつけた。


「バレちゃった、じゃないですよ。先輩は⋯⋯先輩は、私が同じ病気だって知ってて、それで私に構ってたんですか? 同じ境遇で、可哀想だからって⋯⋯」


「⋯⋯違うよ」


その瞳には、憐れみなんて一滴も混じっていなかった。


「僕が咲菜に声をかけたのは、君が桜の匂いをさせてたからじゃない。⋯⋯君が、今にも消えてしまいそうな顔をして、それでも必死に前を向こうとしてたからだ。その姿が、鏡を見てるみたいで放っておけなかった。⋯⋯最初は、そうだったよ」


先輩は少しだけ視線を天井に向け、遠い日を思い出すように目を細めた。


​「でも、いつの間にか⋯⋯自分のことなんてどうでも良くなってた。君を笑わせるたびに、僕の中の嫌な根っこが、ほんの一瞬だけ、痛みを忘れてくれる気がしたんだ。⋯⋯咲菜。僕は君を救いたかったんじゃない。君と一緒にいることで、僕が救われてたんだよ」


「⋯⋯っ、そんなの、自分勝手です。私、先輩がいれば⋯⋯先輩が元気なら、それでいいって思ってたのに。先輩までいなくなっちゃったら、私、何のために頑張ればいいんですか⋯⋯!」


私は彼の胸元を、弱々しく拳で叩いた。

あんなにかっこよくて、無敵に見えた先輩。
でも今、私の目の前にいるのは、一人の脆い少年だった。


「ごめん。⋯⋯でも、後悔はしてない」


先輩は震える手で、私の頬に触れた。
指先から、あの懐かしい、そして残酷な熱が伝わってくる。


「水族館で『たこのすけ』食べて笑ったことも、クリスマスに冬桜を見たことも。⋯⋯あの時、僕たちは確かに、病気なんて関係ない『普通の中学生』だった。僕は本当に、このまま春なんて来なきゃいいって、神様に喧嘩売りたい気分だったんだ」


​先輩の目からも、一筋の涙が溢れ、枕を濡らした。


「咲菜。⋯⋯君を騙してたのは、謝る。でも、僕が君を好きだって言ったことだけは、一度も嘘じゃなかった。それだけは、信じて」


その言葉が、私の心臓の根を、優しく、けれど強く揺さぶった。
 
私たちが共有していたのは、美しい思い出なんかじゃない。


互いの体から漏れ出す死の香りを、香水や嘘で覆い隠しながら演じていた、普通だった。


​⋯⋯でも、その嘘が、私を生かしてくれてた。


​「⋯⋯先輩」


私は彼の熱い手を、両手で包み込んだ。
 
「⋯⋯ひどいです。嘘つきです。⋯⋯最低の、プレイボーイです」


泣き笑いのような声で言うと、先輩は「ははっ、手厳しいな」と、また弱々しく笑った。


「⋯⋯でも、私も。私も、先輩との時間は⋯⋯全部、本物でした。⋯⋯大好き。奏斗」


それが初めて名前を呼んだ瞬間。


同じ病。
同じ絶望。
同じ、散り際の桜。


それが、私たちが繋がっていた唯一の「運命」の正体。



でも、もしその運命が私たちをここに導いたのなら。
私は初めて、この呪われた病気に感謝したいとさえ思った。
 
私たちは、互いの中から溢れ出す、かつてないほど濃厚な桜の香りに包まれながら、静かに、けれど確かに、一つの答えに辿り着いた。


――春が来て、すべてが散ってしまうその瞬間まで。
私たちは、嘘のない本当の時間を、ここで綴り続ける。