死にゆく私は、桜の世界で二度と散らない恋をした。



タクシーを降り、病院の自動扉が開いた瞬間、私の鼻を突いたのは慣れ親しんだ消毒液の匂いだった。

けれど、今の私にはそれさえも、自分の中から溢れ出す桜の香りを完全には消し去ってくれないように感じられる。

一歩歩くたびに、胸の奥の蕾が脈打ち、肉を裂くような鈍い痛みが走る。


​⋯⋯大丈夫。まだ、歩ける。


受付を済ませ、内科の待合室へと向かう長い廊下。


そこは、生と死が隣り合わせに存在する、静寂に支配された空間だ。
ふと、前方にある自動販売機の前のベンチに、見覚えのある後ろ姿を見つけた。


​⋯⋯え? 先輩?


黒のロングコートに、少し乱れた髪。
間違いなく、奏斗先輩だった。


よく妹さんのお見舞いに来ると言っていたから、ここにいても不思議ではない。


「先輩⋯⋯?」


掠れた声で呼びかけてみる。けれど、反応はない。


いつもなら、私の声を聞いた瞬間に「咲菜!」と弾けるような笑顔で振り返ってくれる彼が、今は微動だにせず、深く俯いたままベンチに腰掛けていた。
 
お疲れなのかな⋯⋯妹さんの具合、良くないのかな。


私は胸の痛みを堪えながら、ゆっくりと彼に近づいていった。


数歩、歩み寄る。


あと、三メートル。

二メートル。

一メートル。


その時、鼻腔をくすぐったのは、いつもの香水の香りではなかった。



――あまりにも甘く、あまりにも鮮やかな、桜の香り。
 
私の体から漂っているものと、全く同じ。


いや、それよりもさらに濃密で、狂おしいほどに濃厚な、あの死の花の匂い。


​「⋯⋯先輩?」


震える手で、彼の肩に触れようとした、その瞬間だった。
先輩の体が、糸の切れた人形のように、ゆっくりとベンチから滑り落ちた。


​「⋯⋯っ、先輩!? 奏斗先輩!!」


​重い音が床に響く。
私は慌てて駆け寄り、彼の体を抱き起こした。
 
真っ白な顔。
彼の胸元からは、私の心臓が叫んでいるのと同じ、あの激しい拍動が、周囲の空気を震わせるほどに響いている。


​「嫌⋯⋯嘘だよね、先輩⋯⋯なんで、なんで同じ匂いがするの⋯⋯?」


わけがわからない。
理解を拒絶する脳裏で、これまでの彼の行動が走馬灯のように駆け巡る。


なぜ、彼は私の病名を聞いた時、あんなに絶望したような顔をしたのか。
なぜ、いつも鼻を突くような強い香水をつけていたのか。



廊下の奥から数人の医師と看護師が駆け寄ってきた。


「おい、ストレッチャーだ! 急げ!」


「バイタル確認!」


​飛び交う怒号。
手際よく先輩の体がストレッチャーに乗せられ、酸素マスクが装着される。


私はその渦の中から、乱暴に引き剥がされた。


​「離して! 先輩! 私も一緒に行かなきゃ⋯⋯!」


「落ち着いてください! 君はこっち!」


​看護師さんに肩を抱かれ、私は強制的に別方向へと流されていく。


視界の端で、先輩を乗せたストレッチャーが、救急救命室へと消えていくのが見えた。


残されたのは、廊下に漂う、圧倒的な桜の残香だけ。


​⋯⋯あ、あはは。
​涙も出なかった。


代わりに、乾いた笑いがこみ上げてくる。


そんなはず、ないじゃない。
先輩が、私と同じ病気だなんて。


だって彼はあんなに元気で、サッカーをして、私をどこへでも連れて行ってくれて。


きっと、また新しい香水に変えたんだ。
​私は、自分を宥めるように、心の中で呪文を唱えた。


「桜の香りが流行ってるんだ。きっと、そのせいでしょ? 先輩ったら、私と同じ匂いにしたかったんだ、変態なんだから⋯⋯」


​看護師さんに促されるまま、私は真っ白な診察室へと足を踏み入れた。
 
嘘だ。嘘に決まってる


そう思いたいのに、私の指先には、彼を抱き起こした時の、あの命を削るような熱さがこびりついて離れない。
 

「⋯⋯咲菜さん、聞こえますか?」


​医師の呼ぶ声が、遠く、水の中に沈んでいるように聞こえる。


私は虚ろな瞳で、自分の胸元に手を当てた。

そこでは、私の蕾が、まるで仲間を見つけたことを喜ぶかのように、今までで一番激しく、歓喜の声を上げていた。