意識の底から這い上がってきたとき、最初に感じたのは、視界を塞ぐような白でも、耳を裂くような機械音でもなかった。
圧倒的な、桜の香り。
それは春の嵐が部屋の中に吹き込んだかのような、濃厚で、狂おしいほどに甘い匂いだった。
⋯⋯あ、私、死んだんだ。
そう思った。
あんなに心臓が焼けつくように痛かったのだから、きっともう、私の体は限界を迎えて、魂だけがどこか遠い場所へ行ってしまったのだと。
天国というのは、こんなにも花の香りに満ちている場所なのだろうかと、ぼんやりとした頭で考えた。
けれど、シーツのざらりとした感触や、自分の腕に絡みついた毛布の重みが、次第に輪郭を持って私に現実を突きつけてくる。
重い瞼をゆっくりと押し上げると、そこにあったのは見慣れた自分の部屋の天井だった。
窓から差し込む冬の朝の光が、埃をキラキラと反射させている。
「⋯⋯っ、う、ああ⋯⋯」
喉の奥から、嗚咽が漏れた。
死んでいなかった。また、目が覚めてしまった。
それがどうしようもなく恐ろしくて、同時に、まだこの世界に繋ぎ止められていることが嬉しくて、私は子供のように声を上げて泣いた。
頬を伝う涙が温かい。
鼓動はまだ、不規則でか細いけれど、確かに胸の奥で時を刻んでいる。
ふと視線を落とすと、床に転がったスマホが目に入った。
昨夜、私の意識が途切れる直前まで、必死に私の名前を呼び続けていた機械。
震える手でそれを拾い上げると、画面には奏斗先輩からの不在着信が何十件も並んでいた。
彼の不安。彼の焦燥。
それを想像するだけで、胸が締め付けられる。
私は迷うことなく、彼の番号をタップした。
呼び出し音は一回も鳴らなかった。
『――咲菜っ!?』
スピーカーから聞こえてきたのは、今にも泣き出しそうな、けれど必死に理性を保とうとしている彼の声だった。
「⋯⋯あ、先輩。おはよう、ございます」
自分の声が、驚くほど掠れていた。
けれど、精一杯いつも通りを装って、唇を噛み締める。
『おはよう⋯⋯じゃないよ、バカ。何度電話したと⋯⋯』
「⋯⋯ごめんなさい。昨日、なんだか急に眠くなっちゃって⋯⋯そのまま、寝落ちしちゃいました」
嘘だ。
『⋯⋯本当に??』
「はい。昨日、いっぱい歩いたから⋯⋯。先輩の香水の匂いが心地よくて、つい」
受話器の向こうで、先輩が長く、深い溜息を吐くのが分かった。
憑き物が落ちたような、安堵の溜息。
『⋯⋯そっか。まあ、無事ならいいんだ』
「すみません⋯⋯。あ、今日は、何か予定ありましたっけ」
『ん? いや、特には。でも、もし元気なら、またどっか行く? 映画でも、買い物でも』
先輩の優しい提案。
いつもなら、喜んで「行きたいです」と答えるはずだった。
けれど、今の私には、立ち上がることさえ一苦労なほど、体力が削り取られていた。
それに、自分の中から溢れ出すこの桜の香りは、もう隠しきれるレベルではない。
「⋯⋯ごめんなさい、先輩。今日は、まだ眠いので。一日中、二度寝する日にします」
『⋯⋯そっか。まあ、正月休みだし。たまにはダラダラ過ごすのもいいかも』
「はい。⋯⋯ゆっくり休みます」
『わかった。じゃあ、いっぱい寝て、元気になってね。⋯⋯大好きだよ』
その言葉を聞いた瞬間、また涙が溢れそうになった。
大好き。
その言葉が、今の私には何よりも残酷で、何よりも温かい救いだった。
「⋯⋯私も。私も、大好きです」
電話を切った瞬間、私の顔からいつも通りの仮面が剥がれ落ちた。
ベッドから這い出し、クローゼットの鏡の前に立つ。
映し出された自分の姿に、私は絶句した。
顔色は土色を通り越して真っ白。
「⋯⋯休眠打破。もう、始まっちゃったんだ」
冬桜の木の下で感じたあの痛みは、序章に過ぎなかった。
春が来る。
私を連れ去るための、残酷な季節が、すぐそこまで来ている。
私は震える手で、タンスの奥から着替えを取り出した。
おしゃれなコートでも、先輩が褒めてくれたワンピースでもない。
厚手のジャージと、何があってもいいように纏めた入院準備のバッグ。
母親にメモを残す。
『ちょっと、病院に行ってくるね』
そんな短い言葉に、これまでの感謝と、少しだけの別れの予感を込めた。
部屋を埋め尽くす桜の香りを振り払うようにして、私は家を出た。
外は、昨日までの雪が嘘のように晴れ渡り、澄み切った青空が広がっている。

