私の中から溢れ出す、残酷なほどに鮮やかな桜の香り。
けれど、今の私にとって愛おしいのは、そんな自分の死を予感させる匂いではなかった。
お風呂上がり、髪を乾かしながらふと感じる、私の服や肌に移った奏斗先輩の香水の残り香。
それは、彼が私の隣にいた確かな証。
私をただの女の子として抱きしめてくれた、体温の記憶だった。
……寂しいな。
つい数時間前まで繋いでいた手の熱が恋しくて、私はリビングのソファに深く沈み込んだ。
テーブルの上には、先輩が買ってくれたショコラスティック。
一箱はもう空っぽで、二箱目の残りを一本、口に運ぶ。
カリカリ、という乾いた音が静かな部屋に響いた。
スマホが震える。彼からのメッセージだ。
『ちゃんと温かくしてる?雪、またひどくなってきたから』
『はーい』
『今何してるの?』
『お風呂入ってました』
『香水の匂い取っちゃった感じ?』
『え、だめでした?』
『ううん。別にいいよ(笑)』
画面越しに、彼の笑い声が聞こえてくるようだった。
指先で文字を綴る時間は、何よりも幸せで、満たされていた。
時計の針が深夜を回り、会話は自然と「眠いね」という流れになっていく。
『咲菜、そろそろ寝る?』
『そうですね……。私も、なんだか急にまぶたが重くなってきちゃいました』
そう送ろうとした、その時だった。
「……っ!?」
心臓を、太い楔で打ち抜かれたような衝撃が走った。
今までとは比べ物にならない、圧倒的な痛み。
心臓の奥で、眠っていた蕾が一斉に外皮を突き破り、私の肉を内側から食い破るような感覚。
「あ……が……っ!!」
スマホを握る力が抜け、バサリとカーペットの上に落ちた。
息ができない。
肺が、自分の中から溢れ出す桜の花びらで埋め尽くされているみたいだ。
酸素を求めて喉を鳴らすけれど、入ってくる空気はひどく浅く、鋭い。
「はぁ、っ、……ゅ……っ」
これが、休眠打破。
冬の寒さに耐え抜いた蕾が、春の目覚めを前にして爆発的に成長する、あの美しいはずの現象。
視界がチカチカと火花を散らす。
痛い、痛い、痛い。
心臓が、まるで別の生き物のように暴れている。
足元のスマホが、執拗に震え続けているのが分かった。
返信が途絶えたことを不審に思ったのだろう。
先輩からの通知が鳴り止まない。
そして、ついに震えは止まらず、着信を知らせるメロディが鳴り響いた。
で、なきゃ……。かなと、せんぱい……っ。
伸ばした指先が、わずか数センチ先のスマホに届かない。
床を這うようにして、震える手で画面をなぞろうとするけれど、指にはもう力が入らなかった。
っ死にたく、ない……。
涙が、床に落ちて染みを作る。
死ぬのが怖いんじゃない。
彼との、思い出を綴れなくなることが。
来年のおみくじを、一緒に引きに行けなくなるのが。
私の名前を少し照れくさそうに呼ぶ彼の声を、二度と聴けなくなるのが、ただ、狂おしいほどに怖かった。
いや、だ……おねが、い……っ。
最後に見たのは、暗い部屋の中に青白く光るスマホの画面。
そこに表示された、『奏斗先輩』という四文字の輝き。
何度も、何度も鳴り続ける着信音は、遠のいていく意識の中で、次第に激しい拍動と同化していった。
そして。
私の世界は、濃い、濃い桜の香りに包まれて、深い闇の底へと沈んでいった。

