死にゆく私は、桜の世界で二度と散らない恋をした。



街は一気に色づき、どこへ行っても鈴の音と煌びやかなイルミネーションが、人々の心を浮き立たせていた。


けれど、我が家のリビングだけは、いつも通りの静寂に包まれている。


​「⋯⋯お母さん。あのね、二十五日のクリスマス、お出かけしてくる。帰るの、少し遅くなるかもしれないけど」


夕食の片付けをしていた母の背中に、私はおずおずと声をかけた。


母の手が、一瞬だけ止まる。
彼女はゆっくりと振り返り、濡れた手をエプロンで拭いながら、少しだけ寂しそうな、それでいて探るような視線を私に向けた。


「クリスマス、ね⋯⋯。咲菜、最近よく出かけるようになったけど、誰と言ったの?」


​その問いに、私は一瞬、言葉を詰まらせた。

まさか、三年の瀬口先輩と付き合っているなんて、そして彼が私の病気を知っていて支えてくれているなんて、今の私にはまだ、うまく説明できる自信がなかった。


​「⋯⋯友達と、遊びに行ってるの。文化祭の時も一緒だった、あの子たち」


「そう⋯⋯。そうよね。咲菜ももう中学生なんだし、友達と過ごしたいわよね」


​母はそう言って、力なく笑った。
以前の母なら、「勉強は?」とか「どこへ行くの?」としつこく聞いたかもしれない。

でも、私の余命を知ってからの母は、腫れ物に触れるような、どこか私に対して遠慮をしているような、そんな不自然な優しさを纏うようになっていた。


「⋯⋯今まで、そばにいてあげられなくて、ごめんね。咲菜」


​唐突な母の謝罪に、私は息を呑んだ。


「え⋯⋯? 何、急に」


​「働いてばかりで、あなたを一人にして。⋯⋯病気になるまで、あなたの変化に気づいてあげられなかった。もっと早く、もっと寄り添っていれば、こんな⋯⋯こんなことには、ならなかったんじゃないかって」


​母の瞳が、急速に潤んでいく。
彼女は、自分を責めていたのだ。

離婚してから女手一つで私を育てるために、身を粉にして働いてきたこと。

その忙しさの影で、娘の心臓に「死の花」が根を張っていたことに気づけなかったことを。


​「違うよ、お母さん。お母さんのせいじゃない。私は⋯⋯私は幸せだ
よ。毎日、美味しいご飯を作ってくれて、私のために頑張ってくれてること、ちゃんとわかってるから」


​「でもね、咲菜。私は、母親なのに⋯⋯。あなたの『明日』を、買ってあげることができない」


​母の声が震え、その目から大粒の涙が零れ落ちた。
彼女はキッチンから歩み寄り、震える手で私の肩を抱きしめた。


お母さんの匂い。
柔軟剤と、少しだけお惣菜の匂いが混じった、安心する、大好きな匂い。


「クリスマス、楽しんできなさい。⋯⋯お母さんのことなんて気にしなくていいから。あなたが笑っていられる時間を、一分でも、一秒でも長く過ごしてほしいの。それが今の私の、たった一つの願いだから」


​「お母さん⋯⋯っ」


​私は母の背中に手を回し、その細い体を強く抱きしめ返した。


私の中に咲こうとしている桜は、私だけではなく、母の心までも蝕んでいた。

けれど、この温もりがある限り、私はまだ絶望しなくて済む。


​「⋯⋯ありがとう、お母さん。行ってくるね。ちゃんと、楽しんでくるから」


冬の冷たい夜、リビングの隅で肩を寄せ合う私たち。
窓の外では、誰かが流すクリスマスソングが楽しげに響いていた。


その光と影の狭間で、私は母の愛を改めて胸に刻み、二十五日の特別な日を迎える覚悟を決めた。