死にゆく私は、桜の世界で二度と散らない恋をした。



巨大な水槽の前で蒼い世界に浸っていた私たちは、どちらからともなく「ぐぅ」という小さな音を響かせ、顔を見合わせて吹き出した。

水族館という幻想的な空間にいても、お腹は正直に日常を訴えてくる。


​「⋯⋯お腹、空いたね」


「ですね。かなり歩きましたし」


​私たちは、館内の案内表示に従って、二階にあるフードコートへと向かった。


お昼時を少し過ぎた館内は、家族連れの姿もまばらになり、程よい活気に包まれている。


入り口には、年季の入った自動券売機が二台並んでいた。
ボタンにはそれぞれ料理の写真が貼られていて、どれも水族館価格ではあるけれど、不思議とどれも美味しそうに見える。


​「さて、何にする? 咲菜ちゃん。和洋中、意外と揃ってるよ」


​瀬口先輩が千円札を数枚手に持ちながら、券売機の前に立った。
私はその横で、ずらりと並んだメニューを眺める。

カレー、ラーメン、ハンバーガー⋯⋯。
けれど、私の目は、券売機の隅っこのあるメニューに釘付けになった。


「⋯⋯先輩、あれ。たこ焼きがあるんですけど」


「お、本当だ。水族館でたこ焼きって、なかなか攻めてるね」


「さっき見ませんでしたっけ。あっちのコーナーで。⋯⋯たこのすけみたいな、名前のタコ」


私は、さっき見た真っ赤なタコが、元気に岩陰に隠れていた姿を思い出した。

つぶらな瞳でこちらをじっと見ていた、あの愛嬌のある姿。


​「あー、いたね。『たこのすけ』。子供たちに大人気だったやつ」


「⋯⋯私たち、さっきまであんなに『可愛いね』って愛でてたじゃないですか。それなのに、ここに来てたこ焼きを食べるのって、どういう感情なんでしょうね」


「ははっ、それは言わない約束だよ。食物連鎖の頂点に立つ人間の、業ってやつかな」


「なんて言いながら、先輩、もう指がたこ焼きのボタンに行ってます
よ! 買ってるじゃないですか!」


​私がツッコミを入れると、瀬口先輩は「あ」とわざとらしい声を出した。


「いやぁ、咲菜ちゃんが『たこのすけ』なんて言うから、聞いてたら無性に食べたくなっちゃったんだよ。タコのプリッとした食感が、脳内で再生されちゃって」


「ひどい⋯⋯。たこのすけが泣いてますよ」


「その分、僕が感謝して美味しくいただくから。咲菜ちゃんは何にする? ほら、選んで。僕が奢るから」


結局、私は少し迷った末に、一番無難で美味しそうに見えた「自家製たまごサンドイッチ」のボタンを押した。


飲み物は温かいウーロン茶。
瀬口先輩は、迷わずたこ焼きと、そして大きなカップのコーラを選んだ。


​食券をカウンターに提出し、渡された呼び出しベルを持って、私たちは窓際の席に座った。

窓の外には、冬の気配を湛えた海が広がっている。


​「咲菜ちゃん、サンドイッチだけで足りるの? もっと肉系とか行かなくてよかった?」


「私はこれくらいでちょうどいいんです。たまごサンド、大好きですし」


ほどなくして、ベルがけたたましく鳴った。

席に戻ってくると、テーブルの上には香ばしいソースの匂いと、マヨネーズの柔らかな香りが広がった。


​「見てよ、これ。たこ焼き、意外と大粒だよ。六個入り」


瀬口先輩は割り箸をパチンと割り、アツアツのたこ焼きを一つ、頬張った。


「⋯⋯あふっ、熱っ! でも、うまっ。咲菜ちゃん、これマジで当たりだよ」


「そんなに美味しいんですか?」


「うん。生地がトロトロ。あ、ほら、たこのすけも入ってる」


「たこのすけって言わないでください」


​私は呆れながらも、自分のたまごサンドを一口齧った。
ふわふわのパンに、少し辛めのマヨネーズで和えられた濃厚な卵がぎっしり詰まっている。


​「⋯⋯ん、こっちも美味しいです。先輩も一口食べます?」


「え、いいの? じゃあ、交換。こっちのたこ焼き一個あげる」


​瀬口先輩が、箸でたこ焼きを私の口元に運んできた。いわゆる「あーん」の形。


「⋯⋯っ! せ、先輩、自分で食べられますから!」


「いいじゃん、手が塞がってるんだし。ほら、冷めないうちに」


​周囲の視線が気になって、私は顔を真っ赤にしながら、そのたこ焼きを口に含んだ。


熱い。
けれど、確かに美味しい。


口いっぱいに広がるソースの甘みと、タコの弾力。


瀬口先輩は、私が差し出したたまごサンドをガブリと大きく一口で食べ、「お、卵が濃厚だね」と満足そうに目を細めた。


コーラをストローで音を立てて飲む先輩。
ウーロン茶の湯気をふーふーと吹きながら、それを見守る私。


外の海は冷たそうに見えるけれど、このフードコートの、少しプラスチックの匂いがする空間は、驚くほど平和で、優しさに満ちていた。


​「⋯⋯ねえ、咲菜ちゃん」


「はい?」


「こういうの、いいよね。何てことないご飯を、二人で食べて笑うの。僕、こういう時間が一番好きかも」


先輩が、ストローを咥えたまま、少しだけ真面目な顔で私を見た。
その瞳に吸い込まれそうになって、私は慌てて視線をウーロン茶のカップに落とした。


​「⋯⋯そうですね。私も、好きです。たこのすけの供養もできましたし」


「あはは、まだ言ってるよ。ほら、まだあるから。もう一個食べる?」


笑い声が、午後の光が差し込むフードコートに溶けていく。


私たちは、最後の一口までゆっくりと時間をかけて、この普通の幸せを味わい尽くした。