九月の中旬を過ぎると、校内の空気は一変した。
夏休み明けの気だるさはどこへやら、廊下を歩けば誰かが段ボールを運んでいたり、放課後の教室からは筆で色を塗る独特の匂いが漂ってきたりする。
「文化祭」という、年に一度の大きな熱源が、学校という巨大な箱をじわじわと侵食し始めていた。
私の通うこの中学校は、一学年につき三クラスしかない、今時珍しい小規模な学校だ。
けれど、昔はもっと生徒数が多かった名残なのか、敷地だけは無駄に広い。
使われていない特別教室や、迷路のような渡り廊下、そして無意味に広い中庭。
その広さが、今の私にはどこか救いのように感じられた。
人がまばらな場所を見つけるのが、この学校では難しくなかったから。
朝のホームルーム。
担任が黒板に「文化祭・役割分担」と大きく書き出した。
「えー、二組の出し物はアンケートの結果『ブックカフェ』に決定しました。で、役割だけど⋯⋯」
私は窓の外を眺めながら、自分とは無関係な出来事のようにその声を聞いていた。
結局、やりたい役割を申告するじゃんけんで私はあっさりと負け、残っていた『パンフレット配り』と『当日カフェのシフト担当』に割り振られた。
何でもいいから良かったんだけど。
「小倉さんは、カフェの受付とパンフ配りね。あ、衣装は制服にエプロンでいいから」
「⋯⋯はい。わかりました」
この学校の文化祭は、地域でも少し有名らしい。
三学年合同の合唱コンクールに始まり、各クラスの趣向を凝らした出し物。
そして午後の後夜祭では、グラウンドで大規模な花火が上がる。
去年までは、綺麗だなと純粋に思えた花火。
でも、今の私には、夜空に咲いて一瞬で消える火の花が、まるで自分自身の未来を予言しているようで、少しだけ怖かった。
「はあ⋯⋯」
一息つくと、心臓が小さく疼く。
最近は痛みというより、何かが内側から押し広げられるような、奇妙な違和感がある。
レントゲンに写っていたあの蕾が、私の体温を吸って少しずつ膨らんでいるのを、感覚だけで理解できてしまうのが恐ろしかった。
そんな私の憂鬱を切り裂くように、休み時間のチャイムが鳴り響いた。
ガタガタと椅子を引く音。
廊下へ飛び出していく生徒たち。
「また、あの先輩が来るのかな⋯⋯」
あれからほぼ毎日、先輩が来た日は屋上でサボるのが日課だった。
昨日からは会ってないけれど。
瀬口先輩なら、また当たり前のように教室に現れて、私をどこかへ連れ去ってしまうかもしれない。
そうなれば、いつものようにクラスの女子たちの刺すような視線を浴びることになる。
私は防御反応のように、わざと教科書を広げて机に視線を落とした。
その時。
「さーなー!! 決まった!? 役割決まったのー!?」
廊下から、聞き慣れた高音の声が響いてきた。
「⋯⋯っ!?」
ビクッとして肩を揺らした拍子に、広げていた教科書が床に滑り落ちる。
顔を上げると、そこには鈴が、満面の笑みで私の教室の扉を乱暴に開けて立っていた。
「びっくりした、心臓止まるかと思った⋯⋯」
「あはは! 大げさだなあ。ねえ、二組は何やるの? 咲菜は何担当?」
鈴は私の返事も待たずに、隣の空いている席にドカッと腰を下ろした。
「⋯⋯私は、カフェの受付とパンフレット配り。鈴のところは?」
「うちはね、クレープ屋! もうね、男子が張り切っちゃって大変なんだよ。生地を焼く練習とか言ってお菓子パーティー始めてるし。咲菜、当日絶対食べに来てよね! サービスしちゃうから!」
「ありがとう。行けたら、行くね」
行けたら行く。
昨夜、瀬口先輩に送ったのと同じ言葉が口をついて出る。
鈴はそんな私の微妙な変化には気づかず、机の上に置いてあった文化祭のパンフレットをペラペラとめくり始めた。
「この学校さ、無駄に広いから、パンフ配りも大変だよー。中庭とか、旧校舎のほうまで回らなきゃいけないし。でも、咲菜なら似合うかもね。カフェの店員さんもさ」
「エプロンするだけだよ」
「それがいいんじゃん! 清潔感あってさ。あーあ、奏斗先輩が見たらなんて言うかなー」
「⋯⋯もう、その名前出さないで」
私が頬を膨らませると、鈴はニヤニヤしながら私の顔を覗き込んできた。
「でもさ、実際どうなのよ。昨日あんなに騒ぎになってたのに。先輩、今日も来るかと思って身構えてたでしょ?」
「⋯⋯別に。そんなことないよ」
「嘘だあ。顔に『先輩警戒中』って書いてあるもん」
鈴はケラケラと笑い、私の図星を突いてくる。
「あ、そうだ! 咲菜、音楽の教科書貸して! 次の授業、合唱の練習なんだけど、私自分の机に忘れてきちゃって。取りに帰るの面倒くさいし、三組と二組、次の時間被ってないでしょ?」
「いいよ。はい、これ」
私は床から拾い上げた教科書を、鈴に手渡した。
「助かるー! 」
鈴は教科書を胸に抱え、再び嵐のように立ち上がった。
鈴が教室を出ていく。
その背中を見送りながら、私はふと、自分の手のひらを見つめた。
夏の終わりの風が、開け放たれた窓から入り込み、私の髪を優しく揺らしていた。

