帰宅した家の中は、夕闇が溜まってひどく静かだった。
私の家は、母と私の二人暮らしだ。
小学生の頃に両親が離婚してから、父の顔はもう思い出せない。
働き手が母一人になってから、生活を支えるために彼女は身を粉にして働いている。
あんな残酷な余命宣告を受けたばかりなのに。
母は腫らした目で私に「行ってきます」とだけ言い残して仕事に向かった。
病院でのショックを飲み込む暇もなく、現実は私たちに労働と日常を強いてくる。
会話らしい会話もできないまま、私は一人でキッチンに立った。
一人の夜ご飯。
包丁がまな板を叩く音だけが、虚しく響く。
食事を済ませ、お風呂に入ろうと脱衣所で制服を脱いだ、その時だった。
「⋯⋯ん?」
空気に混じって、甘い、けれどどこか切ない香りが鼻をくすぐった。
それは屋上で出会った瀬口先輩の香水が移ったのだと思った。
彼と至近距離で対峙したから、服に染み付いてしまったのだと。
けれど、お風呂に入り、石鹸で丁寧に体を洗い流してからも、その香りは消えなかった。
湯気の中に混じる、微かな植物らしい甘い匂い。
風呂上がり、清潔なパジャマに着替えて自分の腕を嗅いでみる。
「⋯⋯嘘、でしょ」
それは、石鹸の匂いでも、柔軟剤の匂いでもない。
もっともっと深い場所から溢れ出してくるような⋯⋯春の訪れを予感させる、桜の香り。
私は震える指でスマホを手に取り、検索バーに言葉を打ち込んだ。
『桜咲病 初期症状 匂い』
画面に映し出された文字は、私の最後の希望を無慈悲に刈り取っていった。
いくつもの医療サイトや、出どころのわからない掲示板の文字が並ぶ。
その中に、私の心臓を凍りつかせる記述を見つけた。
《桜咲病の進行に伴い、患者の体からは特有の香りが漂い始める。これは蕾が心臓で開花準備に入った兆候であり、通称『余香』と呼ばれる。周囲に悟られるほどの香りがし始めた場合、病状は中等度まで進行している可能性が高く――》
スマホが指から滑り落ち、ベッドの上にバウンドした。
中等度。
進行。
開花準備。
「⋯⋯っ、あ⋯⋯」
私は自分の体を強く抱きしめた。
医師が言っていた「余命一年」という言葉が、急に現実味を帯びて迫ってくる。
心臓の中に、本当に花がいる。
それは私の体温を吸い、私の命を糧にして、外の世界へ出ようと香りを放っている。
真っ暗な部屋の中で、私の体から漂う微かな桜の香りは、どんなに布団を被っても消えてはくれなかった。
それは、私がもうすぐこの世界から消えてしまうことを告げる、残酷な通知音のように、いつまでも私の側に居座り続けていた。

