本当はあなたに言いたかった

 ドレスサロンの扉をくぐった瞬間、空気が変わった。
 花の香りと柔らかな照明、絹が擦れる音。店内に漂うのは“幸福”の匂い——のはずなのに、結菜の胸は重く沈む。

「結菜様、こちらへ」

 スタイリストが笑顔で案内する。
 笑顔は優しい。けれど、この優しさは“選ぶ権利がある人”に向けられるものだと結菜は知っている。

 結菜は鏡の前に立たされた。
 三面鏡が、逃げ場を作らない。

 栗色の巻き毛はふわりと肩に落ち、可愛らしい顔立ちが白い照明に浮かぶ。
 それでも目の奥は笑っていない。笑えない。

「本日はお見合い用のお召し物ということで。清楚で、上品で、控えめで——でも“格”は分かるものを」

 スタイリストの言葉が、まるでチェックリストみたいに結菜の上を滑っていく。

 清楚。上品。控えめ。格。
 全部、“朝霧の娘”に求められる条件。

 結菜の横で、父——朝霧社長が腕を組んで立っていた。
 視線はドレスを見るというより、ブランドタグと値札を見ているようだった。

「無難に白は避けろ。相手の家がどう思うか分からん」

 父が言う。

「はい。淡いピンクか、ベージュ、または水色がよろしいかと」

 スタイリストが頷き、ラックから一着を取り出す。
 柔らかなミルクティー色のワンピース。胸元は控えめ、裾は上品な長さ。
 “良い娘”の制服みたいな服。

「お似合いになりますよ、結菜様。お顔立ちが可愛らしいので、こういう優しい色味は特に」

 褒め言葉。
 なのに結菜は、心のどこかが冷える。

 (可愛い、って……便利な言葉)

 可愛いから黙っていろ。
 可愛いから笑っていろ。
 可愛いから、従え。

 フィッティングルームに入ると、カーテンが外の世界を遮った。
 結菜は服を着替えながら、息を吐く。

 誰もいない。
 なのに、自由じゃない。

 鏡の前に立つ。
 ワンピースは確かに似合う。
 栗色の巻き毛も、柔らかな色と相性が良い。
 可愛らしい、と言われるのも分かる。

 ——でも。

 鏡の中の自分が、自分じゃない。

 笑顔の角度まで計算して作られた“令嬢”。
 誰かに選ばれるために整えられた“人形”。

 結菜は鏡の中の自分を見つめ、唇を噛んだ。

 (……やめたい)

 やめたいのに、やめられない。
 父の言う“会社のため”。
 鷹宮の言う“波風を立てない”。
 あの契約書の封筒の硬さが、まだ手の感触に残っている。

 カーテンが開き、スタイリストが目を輝かせた。

「素敵です、結菜様。立っていただくと、シルエットが本当に——」

 父は頷くだけだった。

「それでいい。次」

 次。
 結菜は心の中で苦く笑った。
 ドレスを試すみたいに、人生も“次”へ進められる。

 次の服。淡い水色。次は薄いラベンダー。
 結菜は着替えて、出て、鏡の前に立たされる。
 そのたびに、スタイリストが褒め、父が採点する。

「こちらは少し華やかすぎますね」

「結菜の印象が弱くなる。もう少し落ち着いた」

「相手方に“良い娘”だと思われるのが第一です」

 良い娘。
 良い娘、という言葉の中に、結菜の意思は入っていない。

 結菜は黙って頷き続けた。
 頷くほど、胸が空っぽになる。

 最後に、父が言った。

「これにしろ。品がある。余計な主張がない」

 選ばれたのは、最初のミルクティー色のワンピースだった。
 “無難で上品で控えめ”の完璧な正解。

「結菜様、サイズの微調整をいたしますね。こちら、少しお手を」

 スタイリストが結菜の手を取った。
 柔らかな指先が、結菜の薬指に触れる。

「お見合いですし、念のため……指輪のサイズも測っておきましょうか。後々、必要になることもございますので」

 結菜の呼吸が止まった。

 指輪。
 薬指。
 “後々”。

 ——結婚が、現実のものとして形を持つ瞬間。

「……いえ、大丈夫です」

 結菜は反射で言った。
 声が少しだけ震える。
 スタイリストが不思議そうに笑う。

「そうですか? でも、準備しておくと安心ですよ」

 安心。
 安心なんて、どこにもないのに。

 父が口を開く。

「測っておけ。無駄にはならない」

 命令の声。
 結菜の喉が詰まる。

 結菜はゆっくりと手を差し出した。
 スタイリストがメジャーを取り出し、金属のリングゲージを並べる。

 カチ、と小さな音がした。
 薬指にリングが滑る。

 冷たい。
 まるで鎖。

 結菜は、笑顔を作ろうとした。
 でも口角が上がらない。
 上がらないまま、鏡の中の自分を見る。

 そこには、可愛らしい顔で固まったままの令嬢がいた。
 栗色の巻き毛だけが、ふわりと揺れている。

 (人形みたい)

 結菜は目を伏せた。
 涙が落ちる前に、睫毛の奥に押し込める。

「……何号ですね。メモしておきます」

 スタイリストが明るく言い、父が頷いた。

 たったそれだけのことで、結菜の未来が決まっていく気がした。

 支払いを済ませ、サロンを出る。
 外はまだ明るい。街は普通に動いている。
 結菜だけが、透明な檻の中にいるみたいだった。

 父の助手が紙袋を持つ。
 上質な紙袋。ブランドロゴ。リボン。
 幸福そうな見た目。

 でも結菜には、その紙袋が“首輪”に見えた。

「今夜は予定通りだ。余計なことは考えるな」

 父が言う。

 結菜は頷く。
 頷くしかない。

 ふと、スマホが震えた。
 通知。
 画面の上に表示された名前は——

 《片岡拓真》

 結菜の指が止まる。

 (出られない)

 紙袋の持ち手が、指に食い込んだ。
 薬指の計測痕が、まだひりつく。

 結菜は画面を伏せ、歩き出した。
 笑顔の練習をしながら。

 ——見合いのことは、言えないまま。